浄土真宗 麻布山 善福寺 (柳の井戸)
あざぶさん ぜんぷくじ
住所:港区元麻布1丁目 最寄り駅:地下鉄大江戸線麻布十番駅
麻布善福寺 江戸名所図会
善福寺 麻布絵図(1861)
柳の井戸
境内には弘法開創伝承にまつわる鹿島清水(柳の井戸・楊柳水とも)が湧く。
歴史地名体系
善福寺
善福寺のイチョウ(国指定天然記念物)
ハリス記念碑
善福寺
古川の西方にある寺院。浄土真宗本願寺派。麻布山と号し本尊は阿弥陀如来。もと、真言宗寺院で天長元年(824)に空海の開創という、伝承があり都内でも古い寺院の一つに数えられている。
鎌倉時代に住持の了海願明が親鸞に帰依して浄土真宗に改宗し、関東の同宗の拠点をなす寺院となった。一向宗とよばれていた初期の真言宗教団の関東地方へのひろがりをうかがうことができる。了海は当寺を拠点に展開された阿佐布門徒の指導者として、品川など江戸の周辺に布教をした。大井(現品川区)に生まれ、同地にあった天台宗寺院を改宗して光福寺として再興、のちに京都仏光寺の四世となった。
「木仏之留」によると、慶長7年(1602)には善福寺尭海が火災にあったとして本尊の再下付を請けた。天正19年(1591)に徳川家康により高10石の朱印地と認められていた境内は、正徳4年(1714)の境内指図控によれば総坪数17770余坪。正面から大門・中門を通って東向きの本堂にいたり、大門をくぐった両側には浄泉寺などの寺中寺院が並び、大門の南東には飛び地境内も存在した。
安政6年(1859)には幕府より米国公使ハリスの用邸を命じられ、明治4年(1871)まで公使館として使用された。
永禄9年(1566)から天正18年(1590)に及ぶ7点の善福寺文書、木造了海上人坐像は都指定文化財。
日本歴史地名体系
東京都の地名
鹿島清水
惣門と中門の間にあり、往古弘法大師常陸国鹿島明神に乞い得たまいし阿伽井(あかい)なりと。又土人いわく、鹿島の地に七井と称する霊泉あれどもそのうちの一つは空水なりといえり。昔はその側に柳樹ありしては一名を「楊柳水(ようりゅうすい)」とも唱える。
江戸名所図会
(「弘法大師が鹿島の七つの霊泉の一つをこちらに移したので鹿島では一つの霊泉が空になってしまった」の意)
「柳の井」はその名の通り門から本堂に向かって右手の柳の木の下にある。
「柳の井」は通称で正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」の石碑がある。また弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい)であるという説から「鹿島清水」の別称がある。
全国に弘法大師にちなむ名水は数多いが、差し詰めここはその東京代表といったところか。もっとも二十数年前くらいまでは近所の豆腐屋が仕込みの水を汲みに来たというほどの湧水は、当時とは比較にならないほど減少している。
名水巡礼 東京八十八ヵ所
樹齢約700年と推定され、都内で最古のものとして国の指定を受けています。700年前は善福寺が真言宗から浄土真宗に改宗した年代にあたります。
寺の言い伝えによると、善福寺中興の祖了海上人は寛喜元年(1229)ここに立ち寄った親鸞の教えを受け、これに帰依して、真言宗から浄土真宗に改宗したといわれます。親鸞上人は寺を去るにあたって、持っていたイチョウの杖を地上にさして、「念仏の救法、凡夫の往生もかくの如きか。」というとその杖が根づき、枝葉が茂って今日にいたったといい、俗に逆さイチョウ、または御杖イチョウといわれています。
なお、この木は火災で枯死したかにみえましたが奇跡的に復活しました。
港区文化財のしおり
(根(気根・乳根)が幹の途中から出ているので木がまるで「逆さまに生えているようだ」ということで「逆さイチョウ」と呼んだ)
最初のアメリカ公使館跡(都指定旧跡)
安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、翌年6月(善福寺を)アメリカ最初の公使宿館と決定、同年8月に初代公使ハリスが到着しました。当時の宿館として、奥書院と客殿の一部が使用されていましたが、文久3年(1863)水戸浪士の放火で奥書院などを焼失したため、本堂、開山堂などを使用していました。
当時の本堂は戦災で焼失、現在のものは大阪府八尾市の東本願寺別院を移築した江戸初期の立派な建築です。
また当時の寺僧の記録「亜墨利加(アメリカ)ミニストル旅宿記」四冊(区指定)が残されており、外国公館にあてられた宿寺の実態を良く伝えています。
港区文化財のしおり
中門
本堂
本堂
本堂の扁額
逆さイチョウ
2005/10