高田富士跡  たかだふじあと

  所在地: 高田富士跡  新宿区西早稲田1丁目
     
     (早稲田大学9号館が建つ・跡を示すものは無し)
      宝泉寺(行者墓) 新宿区西早稲田1丁目
      水稲荷神社(富士講が続く) 新宿区西早稲田3丁目
富士塚跡
宝泉寺の北側、早稲田大学9号館のあたり(旧水稲荷神社境内)に、富士塚があった。江戸時代中期以降に江戸で富士信仰が盛んとなり、各地で富士講が組織され、富士塚という模造富士が作られたが、中でも高田富士は江戸で一番古いもので安永8年(1779)に高田村の植木職藤四郎(高田藤四郎・日行)が作ったものである。藤四郎は、享保18年(1733)7月富士山烏帽子岩で断食行の末亡くなった食行身禄の弟子で、墓は宝泉寺境内にある。高田富士の講中は丸藤講といい、早稲田鶴巻町の丸藤宮元講は現在も活動している。
高田富士は早稲田大学が昭和38〜9年に当時の水稲荷神社の土地を購入したため崩された。
ガイドブック 新宿区の文化財 史跡
宝泉寺
天台宗・宝泉寺は平将門を討った藤原秀郷(俗称、俵藤太)の草創と伝えられる古寺で、付近には俵藤太船繋ぎの松など秀郷に関する伝承がある。この寺は中世末期には上杉氏や牛込氏の庇護を受けたが、同寺の歴史を記した梵鐘(区登録文化財)は正徳元年(1711)に鋳造されたものである。宝泉寺は中世以来、隣接していた水稲荷神社の別当寺であった関係で、高田富士を作った日行青山こと高田藤四郎の墓がある。藤四郎は高田村の植木職で富士講を組織し大先達を務めていた。高田富士は富士塚としては江戸で最古のものであった。高田富士が移転した跡には早稲田大学九号館の高層ビルが聳え立っている。
新宿区の文化財 史跡
新宿区教育委員会

源兵衛村
法泉寺は水稲荷神社(戸塚稲荷)の別当を務め、寺伝によれば藤原秀郷の建立で、はじめ秀宝寺と号し天文年間(1532-55)の再興という。安永年中(1778-81)には水稲荷神社境内に高さ三丈余の富士塚が築かれ、6月15-18日の富士参りには諸人が群集し、水茶屋や諸商人が多くの店を出していた。
日本歴史地名大系
富士参
富士信仰は中世以降盛んとなり、富士登山は富士講の開祖長谷川角行により大いに行なわれて、各地に神社の分祀が行なわれて富士遥拝の宗俗は、模造富士を築くに至った。山開きの日には行者姿で富士禅定にならう富士詣が文化文政以降特に流行し、七浅間詣、八浅間参と称する遊山を兼ねた巡拝風俗もあらわれた。

富士禅定(ふじぜんじょう)
富士山上で修行すること。この当時では、先達に導かれて、富士行者の服装を調え、3日または7日の精進潔斎の富士垢離を行い、登頂する富士講の信仰行事であった。

近世の流行なり
安永7年(1778)に高田の水稲荷神社の境内に富士を築立ててより流行した(『宝暦現来集』)。

東都歳事記注釈
六月朔日
富士参(まいり)前日(五月晦日)より群集す。是富士禅定の心とぞ。駿河国富士山は、常に雪ありて登ることを得ず。故に、炎暑の時を待て登山す。是にならひに今日参詣するなり。今日(駒込浅間社)境内、見世物諸商人出。道すがら幡、挑灯等多く出す。鉄砲洲船松町より、当社へ花萬度を納る事、享保二酉年より今に絶えず。浅草砂利場(別当浅草寺中修善院、当所わけて参詣多し)、深川八幡宮境内(文化年中、石を以て富士山の形を造る。昨今登ることを許す)、同一の鳥居の右、同森下町神明宮内、鉄砲洲稲荷内、茅場町天満宮境内、池之端七軒町(飾り物あり)、柳原柳森稲荷の内、神田明神社地、神田松下町不動内、小網町たうか堀稲荷内、下谷小野照崎明神社地(文政11年の夏山を築り)、高輪泉岳寺・如来寺、本所六ッ目(亀戸普門院持)、目黒行人坂。その余挙てかぞふべからず。都て石をたたみて、富士をつくる事、近世の流行なり。
東都歳事記 平凡社
杜鵑(ホトトギス・景物)
大かた立夏を過ぎてより鳴き初める。都て江戸の辺は、この鳥多しといへども、とりわけ西のほうは樹林繁きが故に、この鳥多く、また鳴くこと早し。小石川白山の辺、高田雑司ヶ谷(注1)、四谷辺(大番町)、駿河台、お茶の水神田社、谷中、芝増上寺社、隅田川の辺、根岸里根津辺。
東都歳事記

注1 高田

『江戸名所図会』巻4、丘上にある毘沙門堂の条に「この地の時鳥は余に勝れて早く鳴くゆえに、その名を得たり」と。『江戸名所花暦』には、「毘沙門堂の小高き丘の上は、新樹空を覆ひて涼しく、このあたりの森より時鳥鳴きそむるとなり」と。また、『四時遊覧録』には「高田水稲荷、関口の辺」とあって、ほぼその地を知る事が出来る。

挿絵文章
 初かりのいなはにおつる声はあれとうえし 田の面になく郭公
この歌は、北村季吟翁目白の辺り疏儀荘(そぎそう)と号る庵に在しし頃の詠なりとぞ。

東都歳事記注
高田稲荷明神社
戸塚村の産神(うぶかみ)と称す故に戸塚稲荷とも呼べり。本地仏聖観世音は南都徳一大師の作なり。相伝うに当社の始めは最も久遠なりしに文亀元年(1501)上杉治部少輔(じぶのしょうゆう)入道朝良(ともよし)霊夢によって宮居を再興し戸塚村の地を社領に附せる。その後元禄15年(1702)霊告ありて榎の椌(うつろ)より霊泉湧出す。眼疾を患ふる者この霊水を以って洗うにはたして奇験あり。よって土俗当社をさして「水稲荷」とも称せり。
「神泉」は社前榎の椌よりしたたり出るをいえり、霊験ありといえり。

高田富士山
稲荷宮の後ろにあり岩石を畳むてその容(かたち)を模擬す。安永9年(1780)に至り成就せしとなり。この地に住める大先達藤四郎という者これを企てたりという。毎歳6月15日より同18日まで山を開きて参詣をゆるす。山下に浅間宮を勧請してあり。

毘沙門堂
同境内小高き丘の上にあり、慈覚大師の作にして武蔵守藤原秀郷の念持物なりといえり。
慈覚大師仁寿年間(851-54)旧里下野国に下り佐野の大慈寺に入りたまい、御長2尺5寸の多聞天を彫刻ありて、先の霊像をその胎中に篭めまいらせ大慈寺に安置ありしを、天慶中武蔵守秀郷平将門を征伐の後この地に移したりとなり。
江戸名所図会
2005/05
高田富士 大久保絵図(1854)
高田稲荷 富士山  江戸名所図会
大先達日行墓
宝泉寺本堂  後の早稲田大学9号館の場所に富士山があった
梵鐘
水稲荷神社扁額
水稲荷神社境内
水稲荷神社神殿
太田道灌駒繋松
ここは山吹の里。雨に降られて蓑を借りに百姓家を訪れた道灌に、家の娘が山吹の花を示した。その時馬を繋いだ松というのであろう。
大国社 江戸名所図会には出てこないが
東都歳事記挿絵
廃止前の高田富士  富士講と富士塚 神奈川大学
高田富士山 絵本江戸土産 広重