蕎麦喰地蔵   そばくいじぞう
      
田島山 誓願寺   塔頭 西慶院(現九品院)

    
江戸期所在地:浅草北寺町
     現   所在地:九品院  練馬区練馬4丁目
              (誓願寺  府中市紅葉丘)
民話:蕎麦喰地蔵
誓願寺がまだ江戸浅草田島町にあった時代のことである。浅草広小路に尾張屋という蕎麦屋があった。ある晩、夜更けた頃になって、姿の端麗な一人の僧が来たので、仏心の深い主人は、自ら一椀の蕎麦を供養した。僧は、その蕎麦をうまそうに食べ、厚く礼をいって帰っていった。その次の晩も、また同じ時刻になると、昨日と同じ僧が来て、蕎麦を乞うた。主人はまた快く蕎麦を与えた。その翌日も、またその翌日も、同じ僧はやってきた。
はじめのうちは、誰も気にしなかったがそれが続いて一ヵ月にもなると、店のものは、一体あの坊さんは、何処の寺の人だろうと不思議に思うようになった。そこで、ある晩、主人は、その僧に、お寺はどこですか、と尋ねてみた。すると、その僧はもじもじして答えようとしなかったが、重ねて聞くと、困ったような顔をしていたが、やっと、田島町の寺、といっただけで、逃げるように帰っていった。「あの坊さんはどうもあやしい。狐か狸の化けたのではあるまいか」店のものはこんなことを言って、こんど来たら、つかまえて、化けの皮をひんむいてやろうなどといきまいた。
主人は「まあ待て、間違えて本当の坊さんに失礼なことをしては大変だから」と、若い者を押えておいた。その次の晩も、また例の僧は来た。何くわぬ顔をして、いつもと同じように一椀の蕎麦を供養した。僧は帰っていく。その後を、主人はそっと見えがくれについていった。それを知るや知らずや、僧は誓願寺の山門をくぐり、塔頭西慶院の境内に行く。
主人が、ああ、やはり本当の坊さんだったのかと思いながら、なお見送っていると、不思議や、その坊さんは、地蔵堂の前に立ったかと見ると、扉も開けずに、そのままお堂の中へ消えてしまった。あっと、主人は驚いたが、そのまま一散に家へかけ戻った。その夜主人が寝ていると、夢ともうつつとも知れぬ境に、一人の気高い僧が現われて、「われは、西慶院地蔵である。日頃、汝(なんじ)から受けた蕎麦の供養に報いて、一家の諸難を退散し、特に悪疫(あくえき)を免(まぬが)れしめよう」といったかと思うとその姿は消えてしまった。それ以来、蕎麦屋の主人は、毎日西慶院の地蔵様の前に、蕎麦を供えて、祈願を怠らなかった。
ある年、江戸に悪病が流行して、倒れるものその数を知らぬ有様であったが、この蕎麦屋の一家は、皆無地息災であった。そこで、その由来を伝え聞いて、願望の成就した人は、お礼として蕎麦を奉納したので、いつか蕎麦喰地蔵と呼ばれるようになった。西慶院は、明治維新後同じ誓願寺の塔頭、九品院に合併し、その九品院は十一ヶ寺の一として今、練馬四丁目に移転したので、蕎麦喰地蔵も同寺の境内に安置されている。
日本民話集9 お地蔵さまの奇跡  作品社
蕎麦喰地蔵
誓願寺と浅草広小路  今戸箕輪浅草絵図(1853)
                               誓願寺 江戸名所図会  
<田原町街角から右の方へ行った所に浅草広小路がある。そこにある尾張屋に誓願寺塔頭西慶院のお地蔵さんが蕎麦を食べに出かけた。>
九品院
九品院地蔵堂
九品院
縁起
九品院に安置してある、将軍延命厄難減除蕎麦喰地蔵尊は、後陽成天皇の代、文禄元年(1592)徳川家康、江戸城に拠り江戸市街の経営を着々と進めるに当たり、庶民教化を第一として、行徳兼備の高僧を遍く求めた。そして相模国小田原誓願寺の開山東誉齢祖上人、徳望高く庶人帰依する者多しと聞いて上人を招請するために、大久保石見守を使者に差し向けた。大久保石見守はその途中小田原の某所を通過の節、地中から現われた地蔵尊を拝したので、東誉上人に面談した後このことを告げた。上人も「之れまことに、奇瑞なり」と、その開眼供養を施し、誓願寺境内に安置せられた。
慶長元年(1596)関ヶ原の合戦の4年程前、誓願寺は小田原より江戸神田豊島町、今の須田町あたりに移され、石見守と縁故浅からぬ、塔中西慶院開基善誉俊也和尚が地蔵尊の別当になった。それから帰依するものが増え、武家の信仰も深く、よって将軍地蔵とも称せられた。
その後明暦3年(1657)正月18日振袖火事で知られる江戸の大火で市中の大半は焦土と化し、誓願寺は本寺末寺挙げて浅草田島町に移転した。浅草広小路尾張屋の話はこの時代のことで、天保年間(1830-1843)悪疫流行の時には門前市をなす程の盛況だったという。
前掲の「おはなし」も一般に伝わり誰言うとなく、願をかける時或は願成就の折には、お礼として蕎麦を供養せよ、とこれに依って蕎麦喰地蔵尊の名が起こり、江戸六地蔵の随一として著名になった。時代が推移し、明治の末年西慶院は隣寺九品院に合併され、大正12年9月1日の関東大震災にまた炎上した。そして昭和4年、現在の練馬区練馬4丁目に移った。地蔵尊の堂宇は、大方有縁の信徒の浄財寄付をもって再建し、講中地蔵講を結んで維持し、永遠に茲に安置することとなった。
蕎麦喰地蔵尊別当  九品院
誓願寺
神田小柳町1丁目
明暦3年(1657)の大火以前は誓願寺があった。同寺は慶長元年(1596)に銀町(しろがねちょう)1丁目辺りから移転した。同寺が浅草に引地となって後は土井大炊頭利重(下総古河藩)の拝領屋敷であった。
浅草田島町
明治2年(1869)浅草誓願寺門前が改称して成立。町名は誓願寺の山号田島山にちなむ。
浄土宗誓願寺は浄土宗江戸四ヵ寺の一。はじめに小田原にあり、開山は見連社東誉魯水。天正18年(1590)の北条氏滅亡後徳川家康から江戸移転を命じられ、文禄元年(1592)銀町1丁目(現中央区)に寺地を与えられて移り、堂舎等を造営した。同年家康から制札を与えられ、同8年4月6日には家康・秀忠らを檀那として鐘が造営された。明暦の大火で焼失し、浅草北寺町に移転して再興された。元禄9年(1696)には徳川綱吉生母桂昌院の先祖位牌所となり、同16年には朱印寺領は400石となった。元禄11年住持用誉は常紫衣を許されている。寺域内には別院安養寺(安行寺)の他鎮守八幡弁天稲荷合社(現八幡神社)、坊中の快楽院仁寿院・迎接(こうじょう)院・林宗院・称名院・徳寿院・本性院・宗周院・得生(とくしょう)院・西慶院・仮宿(けしゅく)院・九品(くほん)院・長安院・受用院・宝照院があった。関東大震災で被災後、大正14年に誓願寺は現府中市紅葉丘1丁目に移転。昭和12年(1937)以降快楽院・宗周院・仮宿院・受用院・称名院・林宗院・仁寿院・迎接院・本性院・得生院・九品院の11ヵ寺は現練馬区練馬4丁目へ移転、安養寺は現足立区伊興町狭間へ移り法受寺に合併した。
練馬村
豊島園駅東側には浄土宗の十一ヶ寺がある。十一ヶ寺は浅草田島町(現台東区)の誓願寺の塔頭であった。関東大震災で被災し、昭和12年以降に移転してきた。十一ヶ寺に挟まれて将軍延命そば喰い地蔵尊が祀られている。
日本歴史地名大系 東京都の地名
大江戸線豊島園駅を出ると斜め向かいに寺が整然と並ぶ一帯が見える。その一番奥左側に「そば喰い地蔵」があった。寺だけが並んでいるので静かなところに祀られているという感じである。
民話の中では江戸時代「田島町」誓願寺のお地蔵さんの話となっているが、「東京都の地名」によれば田島町は明治2年につけられた町名とある。以前は浅草北寺町である。したがってこの民話は明治以降に形作られたものなのであろう。
ほっとする「昔話」である。
現誓願寺山門
誓願寺本堂
扁額
民話の頃の誓願寺と浅草広小路の場所
現在のそば喰い地蔵
現在の誓願寺
2004/11