東海道 品川宿
   所在地:北品川・南品川
        旧東海道沿い
品川宿

江戸時代の東海道の第1宿。次宿は川崎宿。品川宿は当初、北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、享保7年(1722)歩行(かち)新宿が宿場として認められ、以降3宿で構成された。現品川区域には古代の官道の駅、大井駅が置かれていたと推定され、中世にも鎌倉街道の品川宿があった。
北条氏時代の伝馬制下でも品川は宿の機能を担っていた。天正18年(1590)関東へ入部した徳川家康は、領国経営のために江戸を基点に据えた街道と伝馬制度の整備に着手し、慶長元年(1596)江戸−小田原間の石切伝馬手形を下した。
日本歴史地名体系
東海道分間延絵図(1800年前後)
品川宿 芝高輪絵図(1857)
品川宿全景
←ーーーーー品川宿ーーーーー→
品川宿  東海道名所図会
高輪から見る品川宿
高輪・品川  江戸名所図会
武州品川

品川の駅は東都の喉口にして、常に賑わしく、旅舎軒端をつらね、酒旗(さかや)・肉肆(さかなや)・海荘(はまざしき)をしつらえ、客を止め、賓を迎えて、糸竹(しちく)の音、今様の歌麗しく、渚には漁家(いさりのいえ)多く、肴わかつ声々、沖にはあごと唱うる海士(あま)の呼び声おとずれて、風景足らずということなし。ここは東海道53次の館駅の首たるところなるべし。
東海道名所図会
品川 北斎
品川の帰帆 北斎 風流東都8景
東都品川の雪 勝景雪月花 葛飾北斎 品川歴史館所蔵
関が原の戦いに勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年全国的な交通整備に着手し、東海道の各駅に家康の伝馬朱印状を与え、伊奈備前守忠次・彦坂小刑部元成・大久保十兵衛長安の伝馬定書を下付した。寛永15年(1638)に東海道の各宿は馬100疋・歩行人足100人に増強された。品川宿の地子(年貢)免除も寛永10年に5000坪、元禄11年(1698)さらに5000坪が増やされ、計15000坪となった。
17世紀後半になると、江戸に近い北品川宿の北側に人家が出来て新町が形成されていった。しだいに茶屋町として酒食を商う煮売家と同様のものが出来、南北両宿を脅かすようになり、宝永-正徳年中(1704-16)には争いまでなっていた。このころ新町は品川宿に課せられていた人足役(歩行役)のほとんどを勤めていたので、品川宿に加えられるよう道中奉行に願い出ていた。享保7年(1723)に再び願書を提出し、再度に及ぶ代官の調査によって奉行の裁定は新町と善福寺・法善寺両門前町が勝利し、名称を歩行(かち)新宿と改めて品川宿に加わることとなった。これにより品川宿は南品川宿・北品川宿・歩行新宿の三宿で成り立つこととなった。また従来の南北の両品川宿を新宿に対して本宿といった。
日本歴史地名体系
御殿山と歩行新宿
御殿山と歩行新宿  東海道分間延絵図
品川宿の一番江戸よりが歩行新宿で、食売(めしうり・飯盛)旅籠が集中していた。また、歩行新宿の西側には桜の名所御殿山があった。
品川御殿やま 広重 名所江戸百景
御殿山の花盛  広重  絵本江戸土産
御殿山の花盛 其二  広重  絵本江戸土産
東海道品川御殿山ノ不二 北斎 冨岳三十六景 
江戸時代初期から元禄15年(1702)にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた。御殿の位置は現北品川3丁目5番付近と推定される。
桜の名所で知られる御殿山は寛文(1661-73)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のほか飛鳥山隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。塙保己一は寛政10年(1798)5月に幕府から御殿山の一角を拝借・群書類従がここで印刷、刊行された。文政7年(1824)の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は11500坪で、桜600本・櫨(はぜ)60本・松5本・雑木750本と記録されている。
幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られた。さらに明治に入り鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。
日本歴史地名大系 東京都の地名


御殿山
歩行新宿の家並
品川宿並図(歩行新宿) 江戸末期  品川町史
上図は歩行新宿2丁目の家並であるが、ここは宿場の役務として人足を出していたところで「歩行新宿」と名づけられた。家業としては「∧印」がつく「食売旅籠」や水茶屋が多い。実質遊郭である。
食売旅籠
食売旅籠屋相模屋 「土蔵相模」模型 品川歴史館
歩行新宿の中でも大きな旅籠が、現在の北品川1-23角にあった「土蔵相模」である。これは歩行新宿にあった「相模屋」という、旅籠と言うよりもむしろ妓楼で、外壁が土蔵のような海鼠壁だったため通称「土蔵相模」と呼ばれた。
しながわの史跡めぐり
品川区教育委員会

上の品川宿並図右の赤丸が「相模屋」である。
美南見十二候 品川沖の汐干 清長
江戸吉原を「北」、品川宿を「南」の遊郭と通称した。「美南見」は「南」をいう。
品川青楼遊興 浮世絵八華 豊国
品川 北斎 東海道五十三次二
志な川(品川) 北斎
浮世絵に描かれた品川の遊女(飯盛女)
雙筆五十三次 品川 国貞・広重
品川歴史館蔵
品川の御帆 東都名所合 喜多川月麿
品川歴史館蔵

江戸砂子逢身八契 品川駅袖ヶ浦 英泉
品川歴史館蔵
上:名所江戸百景 月の岬 広重
品川歴史館蔵
(座敷は土蔵相模と推定されている)

右:武蔵百景之内 品川見越ノ月 清親
品川歴史館蔵
品川界隈
東海道一の宿駅品川は、江戸の南の遊び場所。遊郭もあれば行楽地もあり、季節によっては汐干狩りも出来る。江戸の外で海が見え、何処となく開放感が漂う。
宿場町としては品川が東海道第一の規模、江戸の遊所として見れば公許の吉原に次ぐ施設と品格を持っていた。飯盛り女と言う名目で旅籠に遊女を置くことを許されたのは品川宿が最初で、明和以降は定員500名の飯盛女が認められ、場所柄から「南」と呼ばれて賑わった。

 ・飯盛にゃよすぎ傾城には不足

東海道から江戸へ入る前にここで一泊して旅の「垢」を落とす人も多かったし、近くには景勝の地があって、品川行きの口実を作ってくれた。桜の御殿山、紅葉の海晏寺、品川神社など、江戸では屈指の名所であった。

大江戸ものしり図鑑
高輪  風流東百遊 豊国
品川歴史館蔵
飯盛女
享保3年(1718)、飯盛女は旅籠1軒に2人と定められた。が、品川宿では明和元年(1764)、500人まで抱えることを許されると、吉原に次ぐ繁栄を誇るようになった。しかし後には3600人を越す飯盛女の増加となり、ついに検挙者を出す事件を生んだ。天保14年(1843)の調査では、飯盛女を置く飯盛旅籠が92軒、水茶屋64軒、飯盛女を置かない平旅籠が19軒であった。品川宿に遊びに通ってくる者は、幕末の記録では薩摩藩の武士や増上寺の僧侶などが客の大半を占めたという。
日本史小百科宿場 東京堂出版
東海道五十三次之内 品川の図 国貞
品川歴史館蔵
北品川宿
北品川本宿 東海道分間延絵図
品川宿並図(北品川本宿) 江戸末期  品川町史
旅籠屋
品川宿御料傍示杭
品川宿傍示杭 東海道分間延絵図
幕府領(天領)の境界には傍示杭と呼ばれるものが立っていました。これより南が品川宿になります。


上:御料傍示杭復元模型

右:説明板

 いずれも品川歴史館

下:東海道五拾三次之内 品川 広重
↑ 傍示杭
宿泊の値段
「東海道中膝栗毛」が出版された享和2年(1802)ころの東海道の旅籠屋代は200文(1800円)であった。この頃からおよそ60年間は旅籠屋代は200文程度を維持していた。これが2食ついての値段なのだから、現代を基準にすると信じられないくらい安い。しかし新発田の大工の1日の賃銭が350文(3150円)であったことを考えれば、旅人たちにとっては決して安いとはいえない金額であった。その後維新動乱で高騰している。

遊女と遊ぶときの値段
安政期(1854〜60)になると、東海道の大きな宿場での飯盛女の揚代は500文から700文、中規模の宿場では300文。酒1本と肴1品ていどの酒肴代が400文、番頭や仲居への祝儀が200文くらいしたという(「講座日本風俗史別館6」)。揚代の半分は文句無に抱え主に入ったし、僅かな取り分の中から着物やかんざしを新調させられたりして、彼女たちの借金はなかなか減らない仕組みになっていた。

道中日記に見る旅の値段 金森敦子 文春新書

(なお、この計算 1文=約9円 は10kgの米が4000円、1石(150kg)=1両としての試算値である)
東海道五拾三次 品川 (狂歌入東海道) 広重
品川歴史館蔵
旅籠屋の家並み復元模型 品川歴史館
本陣・脇本陣
本陣とはもともと武将が戦場にいるときの本拠地をさす言葉だが、転じて武家の主人の宿泊場所を示す。寛永12年(1635)に参勤交代の制度が整えられた頃から、「本陣」の名で呼ばれるようになった。品川宿の本陣は、初め、北品川宿と南品川宿に1軒づつあったが、南品川宿では早くに廃れ、江戸時代中ごろには北品川宿のみとなった。本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門・玄関・書院などがあり、大名行列の乗物や長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を記した関札(せきふだ)を立て、紋の入った幕を掲げたという。
しながわの史跡めぐり
品川宿本陣復元模型  品川歴史館
右:本陣跡(聖跡公園)
脇本陣復元模型  品川歴史館
品川宿内の東海道の距離は一般的には八ッ山から大井村境(現在の北品川1丁目から南品川3丁目)までの約19町余をいう。
宿機能の中心である本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがあった。

日本歴史地名体系
本陣には大名、公家、など特権階級しか泊まれないが、それを補助する脇本陣は公用宿泊者のいない時は庶民も宿泊できた。
問屋場・高札場・自身番
品川駅  江戸名所図会
問屋・貫目改所復元模型  品川歴史館
高札場復元模型  品川歴史館
自身番復元模型  品川歴史館
問屋場は南品川宿と北品川宿と2ヵ所にあったが、たびたびの火災で焼失し、文政6年(1823)以降は南品川宿1ヵ所となった。また、正徳2年(1712)には荷物の重量検査のため貫目改所が設置された。このときは南北両宿に置かれたが、文政6年の火災により南品川宿1箇所となる。
日本史小百科 宿場

なお、1800年前後に作られた「東海道分間延絵図」には2ヶ所が記載されています。
各町内の警備のために設けられていた番所が自身番で、町内の寄り合い相談の場所でもあった。常時3〜5名が詰めて、交代で町内を回り、公用に当り、火の番を勤め、町内の雑務を処理した。
大江戸ものしり図鑑
南品川宿
境橋(現品川橋)
品川宿は目黒川で北と南に別れている。そのため旧東海道の目黒川に架かる橋は江戸時代「境橋」と呼ばれた。現在は「品川橋」と呼んでいる。
この橋には小さな休憩所が設置され、江戸時代を思い浮かべるための説明板が立てられている。
少しでも江戸の面影を残そうとしている設備の一つで、他ではあまり見られない良い企画である。
品川宿並図(南品川本宿) 江戸末期  品川区史
品川宿門前町 ← | → 南品川本宿
南品川宿は煮売屋、すし屋、蕎麦屋、荒物屋、たばこ屋などの店が並ぶ商店街であった。
海蔵寺(投込寺)
鎌倉時代後期の永仁6年(1298)に荒井道場なる時宗道場として開かれたと伝えられる。江戸時代になって、別名「投込み寺」と呼ばれた。これは鈴ヶ森で処刑された罪人や引取り手の無い遊女などを葬ったためである。本尊の阿弥陀如来像のほかに、昭和の初期に信徒から寄進されたという木造菩薩坐像があり、伝来ははっきりしないが、平安時代の11世紀前半の作風を示し、区内でも最も古い像と考えられている。
慶応元年(1865)建立の「津波溺死者供養塔」、大正4年(1915)建立の「京浜鉄道轢死者供養塔」、関東大震災のときに品川の海岸に流れ着いた死者の供養のため昭和7年(1932)建立の「大正癸亥震火大災殞死各霊供養塔」などの供養塔があり、投込み寺としての性格を後世まで保っていることがわかる。

しながわの史跡めぐり
無縁塔群 (区指定史跡)
海蔵寺本堂
南品川宿門前町
品川寺(江戸六地蔵第一番)
品川寺  江戸名所図会
銅造地蔵菩薩坐像 品川寺入り口の地蔵像は、宝永5年(1708)に江戸深川の地蔵坊正元が、浄財を集めて、江戸の入り口6か所に造立した江戸六地蔵のうちの一つであった。神田の鋳物師太田駿河守正義の作で、地蔵像の全身と台座には寄進者の名前がたくさん刻まれている。
しながわの歴史さんぽ
上:地蔵菩薩坐像
品川寺山門
建(立)場茶屋 釜屋跡
近世の茶屋は、寛永12年(1635)の参勤交代制の実施以降に、諸大名や幕府役人、一般庶民の旅行の増大に伴って多く出現し繁栄の一途をたどっている。茶屋は宿場内、間の村、渡船場、峠などに設けられている。特に宿外れの立場茶屋では、湯茶をはじめ一膳飯、水菓子、団子、酒肴つきの食膳などを提供するため、街道往来の旅人や、交通業者などにとっては重要な施設であった。
旅籠屋などよりは安価で、女も大勢おり、取持も良いので一般旅行者ばかりでなく、参勤交代や公用武士など利用するものも多かった。 天保14年(1843)には、間の村の立場茶屋は人足の休憩所とし、旅人を宿泊させないこと、本陣同様の門構えをしないことや玄関の取り払いを命じている。また、茶屋と旅籠屋と競合が続き、旅籠屋からの苦情によって、道中奉行は大名や公用武士が立場茶屋での休憩を禁止している。
日本史小百科 宿場
建物の角に置かれた説明板
現在の品川宿跡
旧歩行新宿・北品川宿跡
旧南品川宿跡
2005/07
注:このホームページに転載している浮世絵のうち「品川歴史館所蔵」と記入したものは、品川歴史館の承諾を得,、同館発行の「品川歴史館所蔵 浮世絵図録」より転載したものであります。該当浮世絵のこのホームページからの転載は禁止させていただきます。
 御殿山へ
須崎弁天へ 
 本陣がある
高札場
脇本陣 百足屋
土蔵相模
脇本陣