関口芭蕉庵  せきぐちばしょうあん
        東京都文京区関口2丁目11-3
西暦 年齢 出来事
1644年 1歳 伊賀上野赤坂で生まれる。幼名金作。長じて忠右衛門。父は松尾与左衛門。
1662 19 藤堂家伊賀付侍大将藤堂新七郎の嫡子良忠(俳号、蝉吟)に仕える。蝉吟と共に貞門派の李吟に師事し俳諧に親しむ。
1666 23 良忠没。25才。芭蕉藤堂家を致仕。
1675 32 この歳の春(もしくは前年の冬)江戸へ下向。桃青の俳号で句会に参加。
1677 34 この頃から神田上水の工事に携わる。目白安楽寺を役宅とする。
1678 35 この年(もしくは前年)俳諧宗匠として立机。立机披露の万句興行を催す。
1680 37 神田上水改修工事終了。深川の草庵に移る。当初庵を泊船堂と称した。
1682 39 俳号、芭蕉を使い始める。
1686 43 「古池や蛙飛び込む水の音」を詠む。
1689 46 「奥の細道」の旅に出る。
1692 49 第3次深川芭蕉庵に入る。
1694 51 旅の途中大阪で没。大津義仲寺に葬る。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
1697 - 安楽寺を「龍隠庵」に改称
1726 - 龍隠庵に「芭蕉堂」が建てられる。
1750 - 龍隠庵に「五月雨塚」が建てられる。
その後 - 龍隠庵を「関口芭蕉庵」とよぶ。
芭蕉年譜
龍隠庵(りゅうげあん)
同所(目白)上水掘の端にあり。昔は真言宗にして安楽寺と号(なづ)く。故ありて元禄10年(1697)黄檗宗に改め、洞雲寺の持ちとなり、平石和尚住持す。本尊は正観世音、慈覚大師の彫造という。庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり。
昔上水開発の頃芭蕉翁(芭蕉翁通称松尾甚七郎といい、藤堂家の侍たり。この上水掘割の時、藤堂家へ普請のことを命ぜられしに、甚七郎この事を司りし故、その頃この地に日々遊ばれしといへり)この地に遊ばれしにより後世その旧跡を失わんことを嘆き、白兎園宗瑞および馬光なといへる俳師、この地の光景江州瀬田の義仲寺にほうふつたるをもって「五月雨に隠れぬものよ瀬田の橋」といへる翁の短冊を塚に築き、五月雨塚と号す。
江戸名所図会
関口上水芭蕉庵椿山  江戸名所百景 広重
江戸名所図会 芭蕉庵(竜隠庵) 
関口上水端芭蕉庵椿山 絵本江戸土産 広重
目白下大洗堰  江戸名所図会
江戸の関口芭蕉庵 (芭蕉の住んだところを偲んで作られた庵)
江戸の大洗堰
水神別当(芭蕉庵のあった場所)と大洗堰  音羽絵図
早稲田から水道橋までの神田上水の様子。左端に関口芭蕉庵と大洗堰がある。現在は江戸川のみであり神田上水は無い。   神田上水工事と松尾芭蕉 挿絵 神田川芭蕉の会
現在の芭蕉庵
西門
東門
芭蕉庵の湧水(豊島台の湧水)
水神社
大洗堰跡の説明板
江戸名所図会に関し
この書(上記)は「上水開発の頃」「上水掘割の時」と、神田上水の開削に芭蕉が関わったかのような表現をしています。しかし芭蕉が携わったのは延宝期の改修工事であり、藤堂家とは関係がありません。藤堂家に普請が命じられたのは慶長11年(1606)からの江戸城の天下普請で、これと混同しているようです。延宝期に行なわれた上水工事は民間業者の手で行なわれています。

芭蕉が起居したのは安楽寺?
(江戸名所図会にある)平石(和尚)が龍隠庵を構えた元禄10年(1697)は芭蕉が大阪で客死した三年後なのです。延宝期の上水工事(1677-80)に際して芭蕉が住めるはずはありません。これをどう解釈すべきか、次のように推理してみました。
つまり、芭蕉が起居したのは、龍隠庵の前身である「安楽寺」であった、ということなのです。後に洞雲寺の所有となるこの寺は、延宝5年(1677)頃にはおそらく衰退していて、工事の役宅とするには好都合だったのでしょう。その跡地に龍隠庵が建てられ、安楽寺の名は帰依、人々の記憶に「昔、芭蕉が住んだ龍隠庵」として残されたと考えられます。

「龍隠庵」から「芭蕉庵」へ
龍隠庵はこのように芭蕉とのゆかりが深く、馬光等によって五月雨塚(芭蕉の関東七墓のひとつ)が建てられてからは、芭蕉の風を慕う俳人たちが多く訪れるようになり、いつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。
なお、関口芭蕉庵は現在講談社・光文社・キングレコードなどを中心に設立された「関口芭蕉庵保存会」が維持管理し、よく昔日の面影を残しています。
神田上水工事と松尾芭蕉 神田川芭蕉の会
水神社
同所(龍隠庵)に並ぶ。龍隠庵別当なり。上水の守護神を祭らん為に北辰妙見大菩薩を安置す。祭神は罔象女なり、祭礼は5月15日なり。

江戸名所図会

水神社
水神社はかつて洞雲寺に属し(現在は近くの関口八幡の所持)、龍隠庵と一つの敷地内にあり、上水道関口水門の守護神として祭られております。現在のように両者の間に「胸突き坂」が通されたのは元禄10年(1697)のことです。
神田上水工事と松尾芭蕉 神田川芭蕉の会
江戸の市民達にとって、大洗堰〜芭蕉庵〜水神社のコースは「江戸名所図会」にある通り名高い観光名所のひとつでありました。
神田上水は昭和8年に廃止され、大洗堰も撤去されました。

同上
「関口芭蕉庵」の庭園には芭蕉の句碑や歌碑が配置され、特に水をためた「ひょうたん池」の景観は素晴らしく、季節を感じながら散策すれば、一句浮かぶかも・・・・。湧き水は、約15mの段差がある崖下から流れ落ち、石鉢に注いでいる。透明清冽な水は飲み水にも適し、以前は句会や茶会にも利用された。
東京の湧水 平塚純宏
ひょうたん池
2005/03
神田上水
天正年間(1573-92)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる上水。井頭の池を池を水源として、関口、水道橋を経て、神田・日本橋・京橋に給水した。総延長約66Km。明治33年新多摩上水施設により廃止。
井頭池は広さ約2万坪とある。現在4万u。武蔵野の3大湧水池のうち最大のもの。
東都歳事記注釈