大山参り

   江戸時代の名称
  相州大山石尊権現 

    そうしゅうおおやませきそんごんげん

   現在の名称

  大山阿夫利神社
   おおやまあふりじんじゃ
     所在地:  神奈川県伊勢原市大山
  雨降山大山寺       あふりさんたいさんじ
     所在地:  神奈川県伊勢原市大山
石尊参垢離取(せきそんまいりこりとり)、相州大山石尊。 六月二十八日より七月七日に至る、七月十四日より十七日の朝に至るを盆山という、この石尊へ参る輩、両国橋の東にて河水にひたり居、垢離(こり)を取ると言って、おめく声、蚊の鳴くが如し、いかにや市人(いちひと)の中にても、中人以下の者のみ也、其人品(そのじんぴん)放逸無慚(ほういつむざん)の者のみ多き事、いと不審なる事なり。
江戸惣鹿子大全(1751年版)


落語「大山参り」

山へ登るのはレクリエーションであったり、冒険であったりと、いろいろ話題になりますが、昔は、みんな信心で登ったもんで。中でも、大山参りは盛んでして。

八五郎「先達っつぁん。今年も大山参り、お願いいたします」
先達「あたしは行くのを止めようと、思ってるんだ」
八「どうしてです?」
先「毎年、そうだ。酒を飲んじゃあ喧嘩になるだろう。間に入って苦労ばかりして、馬鹿馬鹿しいよ、あたしは」
八「さっき、連中とも話しをしたんです。酒の上で、ブウブウ文句を言うやつがいたら、二分っつ取ります。暴れたやつは、坊主にすることにしました」
先「そうか。そういうことなら喧嘩もなかろう。じゃぁ、あたしも行くかな」
八「お願いします」

一八人がお山に出掛けました。今と違って、昔は坊主頭になることは大変に恥ずかしいことで、悪いことをして捕まったとき、「命ばかりは助けてください。その代わり、坊主頭になりますから」と言いますと、「坊主になるんなら、命までは取りゃあしないよ」と、許されたそうで。
そんなわけですから、大事な髷をきられては大変だと、大山のお参りも無事にすんで、これから江戸へ帰る道順で、神奈川の宿へ泊まった。
八「先達っつあぁん!吉兵衛さん!」
先「なんだい大きな声で」
八「あっしと辰の二人は腹を立てましたから、二分出します。その代わり、熊は坊主にしますんで、承知しておくんなさい」
・・・・・・・
(先達さんがわけを聞くと熊が酒を飲んで風呂の中で大暴れをしたという。先達さんは止めようとしたが、怒った八と辰の二人は熊公の頭をクリクリ坊主にしてしまった。次の朝、酒に酔って寝ている熊を置き去りにして17人は宿を発った。熊公は朝宿の女中さんに起こされて、坊主頭にされたことに気づく。急いで顔を洗うと、頭に手ぬぐいを巻いて、茶店で休憩している皆を籠で追い越し江戸の長屋に戻った。長屋についた熊公は、お山に行った連中のかみさんを呼び一人で帰ってきた事情を「帰る途中金沢八景から米ヶ浜へまわったが船が横倒しになりみな行方不明、一人だけ助かった。自分も死のうと思ったが、亭主の帰りを待つみなのため恥を忍んで帰ってきた」と説明する。おかみさん達は疑ったが、熊公の「頭を丸め坊主になった」というのを見てそれを信じ、熊公の勧めで17人のおかみさん達は全員頭を丸めた。
山帰りの連中が長屋に戻って、おかみさんたちが坊主頭になっているのを知り驚き、怒り出す。)
・・・・・・・・
八「{熊へ}やいッ。なんだって、かみさん連中まで巻き込むんだ」
熊「{ニコニコ笑って}やあ、お帰り」
八「手前の悪さを棚に上げて、なんてことをするんだ」
熊「アッハッハッハッハ。いい気持ちだ。いくら怒ったって、頭の毛はちょっくらちょっと伸びるもんじゃねえ」
八「なにを言いやがる。{連中に}かまわねえから、この家を叩き潰せ!」
先「待ちな、待ちな。こんなめでたいことはないじゃないか」
八「先達っつぁん。こんなことをされて、なにが、めでてえんだ」
先「考えてごらんよ。お山も無事にすんで、うちへ帰れば、お怪我(毛が)なくって、おめでたい」
大山参り 三遊亭圓窓 「おもしろ落語図書館」より
東都名所 両国の凉 国芳  右下が水垢離を取る大山参りの人々。手に持つのは「納め太刀」。
石尊参垢離取、相州大山石尊、(朔日山、六月二十八日より七月七日に至、盆山、七月十四日より同十七日の朝山に至)
 浅草川にて一七日こりをとりて石尊禅定する也。乳のかぎり水にひたし、さんげさんげ六こんざいしょう、おしめにはつだいこんがうとうじ、大山大聖不動明王、石尊大権現、大天狗小天狗という文を唱へて、もも度水をかづく也、このこと中人以下のわざにして、以上の人はなし。」

続江戸砂子(1735年版)
昔は山登りと申しましても、今のように運動という訳ではなく、ご信心でお出かけになりましたもので、富士詣り・道了尊、あるいは大山参りなどで、中で大山はいちばん江戸に近いというので、たいそう繁盛したものだそうで・・・・。
大山へ行く前に、両国に垢離場(こりば)というものがありまして、ここで水垢離を取ります『慚愧懺悔(さアんげさアんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)、大山大聖(だいしょう)不動明王、大天狗小天狗・・・』なんてえことを言いまして、一七日(いちしちにち)と言いますから一週間は、ここで精進潔斎をし、それからお山へ登りますので。六月の二十六日から七月の七日までを初山と申します、七月十四日から十七日までを盆山といって、いずれも納め太刀を持ちまして・・・・木で作った太刀で<奉納大山石尊大権現 大天狗小天狗 所願成就 郷の吉広>と銘を入れたものでございます。
落語「大山詣り」導入部分 三遊亭圓生 圓生全集第二巻より
相模州大住郡雨降大山全図  国芳
全図のうち頂上部分
全図のうち下段左「前不動」部分
全図のうち下段右「愛宕瀧」部分
大山
雨降山大山寺(あめふりさんだいせんじ)、通称雨降神社山中に石尊大権現・八大竜王・大天狗・小天狗を祀る。徳川中期前より、どういう訳か勝負の神様と誤られ、六月の山開きより賭博師・職人等が講を仕立てて盛んに参詣した。当時は汚れた体で参詣すれば、天狗に八つ裂きにされると、固く信じていたので、垢離場で水垢離(水行)をとってから山へ登った。
圓生全集解説
明治初期の神仏分離令以前は現在の阿夫利神社上社のある山頂には石尊社、下社のある中腹には大山寺不動堂が有り、この二ヵ所が大山信仰の中心となっていた。江戸時代には中腹の不動堂までは常に誰でも自由に参詣できたが、山頂には石尊社の例祭である六月二十七日から七月十七日までの二十日間しか登拝が許されず、女人の山頂登拝は禁止されていた。中腹の二重の瀧は雨乞いの水汲場や大山登拝者の禊場であった。山麓にも登拝者が身を清める大滝・新滝・良弁滝・元滝などの小滝がある。
歴史地名体系神奈川県の地名
大山良弁瀧の図  国芳
大山石尊良弁瀧の図  国芳
大山石尊大瀧の図  国芳
中世以前大山は祖霊信仰の要素があり、山伏修行の地ともなっていたが慶長10年(1605)徳川家康の命により修験者たちは下山し、坂本と蓑毛に住した。これら山下に移住させられた妻帯修験者をはじめ僧・神職は御師となり、大山信仰を宣布し信仰圏の拡大を図って大山登拝の講を組織した。江戸時代には幕府の庇護を受け、庶民の間では大山講が関東一円に組織され参詣者が増え繁盛振りを見せた。その信仰の最盛期は宝暦年間(1751-64)であり、年間20万人にも達し、中腹の坂本村や矢倉沢往還の大山入口に当る伊勢原村は全て大山道の起点として目覚しい繁盛を見せた。
歴史地名体系神奈川県の地名
高輪大木戸の大山講と富士講 国芳  中央の人々が大山講、下の人々が富士講
現在の大山
   阿夫利神社
大山
丹沢山地の東部に位置し、厚木市の西部、伊勢原市の北西部、秦野市の北東部の接点にある。標高1251.7m。別名をあふりやま・あめふりやまといわれ、「雨降山」、「阿夫利山」と書く。
現在大山には阿夫利神社が祀られており、山頂にはその上社(本殿)、中腹の標高700m辺りには下社(拝殿)がある。阿夫利神社下社から女坂のほうに下がったところには雨降山大山寺(真言宗大覚寺派)がある。
明治初年の神仏分離政策により神仏混淆(こんこう)の僧侶が支配権を握る体制が一変し、大山寺(おおやまでら)の称号は廃され、中腹の大山寺不動堂は現在地に下ろされ、山内の諸坊も下ろされるか廃された。石尊大権現は阿夫利神社と改称、山頂には本殿(上社)、中腹の不動堂跡地には拝殿(下社)が置かれ、山麓には社務所を設けて大山の支配を神職が握った。
日本歴史地名体系
山頂の阿夫利神社本殿(上社)
阿夫利神社拝殿(下社)
この場所が江戸時代、国芳の絵に「前不動」と描かれている「不動堂」や、「楼門」のあったところ。これらは明治初期に破壊され廃棄された。
二重の滝・八大竜王
雨降山 大山寺

大山道

江戸時代の「大山道」を現在の道路でたどった道筋 (代表的な2筋)

大山道
大山(現伊勢原市)参詣のために利用された道の総称。江戸中期以降庶民の間に大山信仰が広まり、参詣者の増加に連れて重要な道となった。江戸からは東海道と矢倉沢往還とが多く利用された。東海道から大山へ向かうおもな道筋は5筋ある。(その一つ)柏尾(かしわお)通大山道は戸塚宿(現横浜市戸塚区)の手前下柏尾で東海道から分岐、上矢部・上飯田(現戸塚区)、千束・用田(現藤沢市)、門沢橋(現海老名市)、戸田(現厚木市)、上糟屋(かみかすや・現伊勢原市)を通り、下柏尾から大山までは約7里である。そのほか矢倉沢往還は大山登拝後富士山へ行く場合や、その反対に富士山登拝後大山へ詣でる場合にも利用された。
大山登山は一種の遊興でもあったから、そのついでに他所を回る場合もあり、大山詣の帰りに伊勢原(現伊勢原市)から田村渡を越えて一之宮をとおり、東海道藤沢宿の西方の辻堂村四ッ谷へ出て、ここから藤沢・江ノ島・鎌倉の寺社を参拝・見物して江戸へ戻ることも多い。
日本歴史地名体系 神奈川県の地名

現在も残る大山道(矢倉沢往還)の旧道(渋谷付近・こげ茶色で示す道)

矢倉沢往還
江戸から三軒茶屋(現東京都世田谷区)を通り二子渡で多摩川を渡り、溝口(みぞのくち・現川崎市高津区)・厚木(現厚木市)、関本(現足柄市)を経由して、足柄峠から駿州に達する道。江戸青山(現東京都港区)と駿河国御殿場(現静岡県御殿場市)から富士へも通じていたから、別名青山通・厚木街道や富士道ともいい、途中の伊勢原(現伊勢原市)と曽屋(現秦野市)が大山への登山口であったために大山道とも称された。江戸幕府の鷹匠や役人の通行もしばしばあり、また西方の一部は箱根八里が開通する元和4年(1618)まで東海道の官道として利用されたため、矢倉沢(現足柄市)には天正18年(1590)以来近世を通じて関所が設置されていた。厚木と伊勢原では六斎市が開かれるなど相模国中央部の経済的中核で、大山・富士への参詣者も多かったことから近世初期から人馬継立組織が設けられた。神奈川県内の継立村を「武蔵国風土記稿」「相模国風土記稿」によって東方より順に示すと二子(現高津区)-溝口-荏田(えだ・現横浜市緑区)-長津田(現同)-鶴間(現東京都町田市)−下鶴間(現大和市)−国分(現海老名市)−厚木ー愛甲(現厚木市)−伊勢原ー善波(ぜんば・現伊勢原市)−曽屋ー千村(ちむら・現波多野市)−神山(こうやま・現松田町)−松田総領(現同)ー関本ー矢倉沢となり、足柄峠に至る。矢倉沢往還は大山への参詣人がついで参りとして富士山へ向かう道でもあったから、松田や関本のように旅籠屋を有する継立村もあった。
日本歴史地名体系 神奈川県の地名

下は現在東急電車三軒茶屋出入口のところに置かれた「大山道」の道標。

渋谷道玄坂を昇り、旧山手通りを過ぎ間もなく右に下る坂道がある。これが大山道にあった「大坂」で、大山道の中で最も急な坂道だったと説明されている。246号線にはバス停「大坂」がある。

現在も残る「大山道」

大山阿夫利神社
大山さん山頂に鎮座し、東側中腹に下社がある。明治初年までは石尊社とよばれ山腹の不動堂とともに信仰の中心であった。「風土記稿」によれば不動堂から山頂の本社まで山路で28町、本社は寛永18年(1641)に造営された。
大祭は現在は7月27日から8月17日まで行われ、7月27日-31日を初山、8月1-7日を7日道、8-12日を間の山、13-15日を盆山、16日から17日までを仕舞山と称する。*

*江戸時代までは6月27日から7月17日までの20日間だけが山開きであったが、現在では4月中の春山大祭、7月末から8月にかけての夏山大祭以外でも参拝自由で、女人禁制も解かれている。
歴史地名体系 神奈川県の地名

下社旧拝殿のようであるが

阿夫利神社下社を下ると大山寺が見えてくる。「相模州大住郡雨降大山全図」の左下の滝の位置に造営されたのかもしれない

大山寺本堂

大山の東の中腹にある。雨降山と号し真言宗大覚寺派。本尊は鉄造不動明王坐像。明治初年までは大山山頂の石尊社とともに信仰の中心で、明治までは「おおやまでら」とよばれた。
天平勝宝7年(755)良弁の開基と伝えられる。良弁は相模国に生まれ、東大寺初代別当となって後、故郷の相模に帰り、大山へ入って不動堂を開いたという。*

*天平宝字5年(761)光増は行基の遺命により不動明王像を刻んで本堂の本尊とした。
鎌倉時代には相模国の有力寺院となっており、室町時代には足利氏一門の信仰が厚かった。その後小田原北条氏、徳川氏の信仰も厚いものであった。*

*明治元年(1868)3月13日の太政官布告により、中腹の雨降山大山寺の山号は廃止され、その地に阿夫利神社が建設されることとなり、御堂を中心とする八大坊と供僧十一坊は破壊された。
住職実乗や十二坊中の八坊の僧侶たちは坂本村にある菩提寺で末寺の来迎院へ移り本拠とした。
*

*本寺に包括された来迎院は、本堂不動堂および他の十二坊とも合同となり山号を宝珠山明王寺とあらため、前不動は追分社と改称された。大正5年(1916)明王寺は雨降山大山寺の旧号に復した。
歴史地名体系 神奈川県の地名

下「春日局大山年表」は家康、家光、春日局の参詣の様子を示したもので、祈願寺であったことを説明している。

左の宝篋院塔は明治の廃仏毀釈により破壊廃棄されていたものを集め復元したものという。

不動明王の脇侍は童子である。本堂の不動明王には矜羯羅・制多迦の両童子が配されている。この滝の脇には不動八大童子が祀られている。

上:土器(かわらけ)投げの標的


右:飛鳥山北の眺望 広重
   土器投げをしている人が見える

中腹に建つ大山寺の前は崖になっており、「土器(かわらけ)投げ」の標的の輪がある。
「土器投げ」は江戸時代にはやった遊びで直径約10cmほどの素焼きの皿を崖の上から投げるものである。
標的の輪を通ると願いがかなうのだそうである。

青銅宝篋院塔

梵鐘

不動八大童子

大坂

「大山道」道標

2006/05

三遊亭圓窓師匠のファンクラブ「窓門会」に参加しませんか。師匠と、そしてお弟子さんの師匠たちと身近なところで落語と歴史を楽しめます。会員のIDカードは「寄席文字で書いたあなたの名札の携帯電話ストラップ」です。もし見かけたらその人は「窓門会員」です。もちろん私も携帯電話には名前のストラップがついています。

        三遊亭圓窓師匠公式ホームページ
                 圓窓落語大百科事典  だくだく