奥沢城跡  おくさわじょうあと
             世田谷区指定史跡
   東京都世田谷区奥沢七丁目
   九品仏浄真寺境内
           
奥沢城跡と跡に建つ浄真寺   江戸名所図会
奥沢城跡
寺地(浄真寺)は天文20年(1551)12月7日の吉良頼康判物(大平文書)に名の見える世田谷城主吉良氏の家臣大平清九郎の居館(奥沢城)跡で、今でも周囲には土塁などが認められる。後に大平清九郎は小田原北条氏の家臣となり、玉縄城(現鎌倉市)の守備に活躍した。大平氏はその後帰農し奥沢村名主を勤めた。
   
日本歴史地名大系  東京都の地名

豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡すると、同氏と姻戚関係のあった吉良氏は下総に遁走し、大平氏も等々力に潜居した。この時、奥沢城も廃城となったものと思われる。その後寛文2年(1662)に、奥沢村の名主・七左衛門が幕府代官・野村彦太夫より一帯の開発を許可され、同5年には城跡のうち、内曲輪九反九畝余りが奥沢新田の菩提寺建設予定地として除地となった。延宝6年(1678)には珂碩(かせき)上人がここに浄真寺を建立し、現在に至っている。城跡の遺存状態は比較的良好で、土塁はその原型をよくとどめている。本遺跡は中世武士の居館の規模を知る上で極めて貴重であるといえよう。
    
せたがやの文化財  世田谷区教育委員会
奥沢城跡を知る人は現在殆どいないであろう。しかし、その場所は「九品仏浄真寺」として有名になっており、東急大井町線九品仏駅から北西すぐのところにある。
「奥沢城跡」の石碑は仁王門の右脇にあった。これ以外「跡」を示すものは見あたらない。区指定史跡であるのに説明板もないのである。「土塁」もお寺の人に聞いてわかったのである。
「跡」をしめす石碑
南側土塁
南側土塁
九品仏浄真寺

三仏堂
左:下品堂(げぼんどう)
中:上品堂(じょうぼんどう)
右:中品堂(ちゅうぼんどう)
堂内の阿弥陀如来像
   都指定文化財
  
浄真寺パンフレット
堂内の阿弥陀如来像
   都指定文化財
   せたがやの文化
江戸時代と変わらず3つのお堂に3躯づつの阿弥陀如来像が祀られており、九品仏という。丈六の仏像で非常に迫力のある像である。
鐘楼   梵鐘は都指定文化財
紫雲楼(仁王門)
境内図
奥沢城跡周辺
区部の城跡
浄真寺
九品山と号し浄土宗。奥沢の九品仏と通称される。当寺は寛文5年(1665)奥沢新田村に寺地を認められ、延宝6年(1678)珂碩を開山として創建された。寺は等々力(とどろき)村、衾(ふすま)村(現目黒区)との境にあった。珂碩は元禄7年(1694)に没して当寺に葬られ、その墓は北東に開山堂が建てられた。堂塔は観無量寿経の様相に従って配置され、西面する本堂は穢土(えど・現世)、その西に向かい合う上品堂・中品堂・下品堂の3仏堂は浄土(彼岸)を表象する。3仏堂にはそれぞれ珂碩作の上生仏・中生仏・下生仏の3躯、上品上生仏から下品下生仏までの計九躯の阿弥陀如来座像が安置されている。九品仏の名称はこれに由来する。本堂・三仏堂は元禄11年の上棟。本堂(現世)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)との間に橋を架し、阿弥陀仏と25菩薩の面をつけた信者が行列して渡る25菩薩練供養(来迎会)は、念仏行者の臨終に阿弥陀が25菩薩を連れて西方浄土から来迎する様子をあらわしたもの。「おめんかぶり」と通称され、3年毎の8月16日に行なわれる。都指定民族無形文化財。
境内にある九品仏のカヤ、同イチョウは都指定天然記念物。
  
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楼上に阿弥陀如来と25菩薩像が安置されている
奥沢城跡
2003/07