真言宗 瀧河山 金剛寺(紅葉寺)
りゅうがさん こんごうじ (もみじでら)
住所:北区滝野川3丁目 最寄り駅:JR王子駅
金剛寺
瀧河山金剛寺
松橋院(しょうきょういん)と号す。松橋弁天境内にあり。弘法大師の開基にして本尊不動尊は大師の作なり。その後あまたの星霜を経て荒廃におよび、他の宗風に化せり、天文(1532-1555)の頃中興阿闍梨(あじゃり)看印(かんいん)なるもの曩祖(のうそ)開基の霊地をして他の宗風に転せしことを嘆き、その頃北条氏康に訴えて再(ふたたび)真言の霊区に復せしむなり。
江戸名所図会
金剛寺 巣鴨絵図 (1854)
2004/11
滝野川村
王子村の南にあり、西は下板橋村(現板橋区)、南は巣鴨村(現豊島区)。東を日光御成道、南を中山道が通る。北側を王子村と境を接して流れる石神井川(王寺川・音無川)はかっては急流で、この急流の水音が瀧のように響いていたといい、村の名称はこれより起こったのではないかと伝えられる。「源平闘諍禄」巻五第四話に治承4年(1180)9月12日のこととして「豊島御庄滝ノ河」に源頼朝が着陣したとある。10月2日に武蔵国に入国した源頼朝は当地で豊島清元らに迎えられるとともに、「豊島ノ上滝野川ノ板橋」に陣をしいている。
鎮守は八幡社で真義真言宗金剛寺(現真言宗豊山派)持。羽黒派修験宝隆院が社守となっていた。
他に浄土宗正受院、真義真言宗寿徳寺(現真言宗豊山派)があった。同寺には幕末新撰組の局長近藤勇の墓がある。
日本歴史地名大系
金剛寺(もみじ寺)
本尊不動明王。弘法大師の開創と伝う。のち源頼朝がこの地に陣をしいた時、地蔵尊を祀り、息災延命を祈ったという。出土の板碑には文保3年(1319)のものなどあり、享保年間(1716〜1736)、将軍吉宗の命により楓を植えて以来紅葉寺と呼ばれる。明治末まで文人墨客でにぎわう。
全国寺院名鑑
源頼朝と関係があるとされるのは金剛寺です。この寺は今でも紅葉寺と呼ばれて紅葉がきれいなことで知られています。頼朝が伊豆で挙兵した後、安房へ敗走し体勢を立て直して、隅田川を渡って武蔵国へ侵攻した時に、滝野川を陣所にしました。その陣を張った場所が金剛寺のあたりと伝承されています。
北区文化財ガイドブック
山門と「紅葉寺」と書いた標柱
扁額
本堂 境内は楓をはじめ木々に囲まれている
左:山門の左、駐車場に植えられている楓がひときわ赤く色づいていた。
この紅葉寺は少し前に参拝していたのであるが、紅葉の時期に再訪したのである。木々が非常に美しい寺である。
富士講
元禄から享保の頃(1688-1736)江戸に居た食行身禄(じきぎょうみろく、伊藤伊兵衛)は富士登山45回の大行者だったが、貧乏人の暮らしの苦しさを見て、食物を万民に公平に行き渡るようにすべきだと幕府を非難し、享保18年(1733)、富士山に登って7合5勺の洞窟に籠り、食を絶って死んだ。
身禄の教えを受けた弟子達は、遺骸の近くに身禄神社を建て、市中に次々と富士講を成立させ、ついには「江戸八百八講」と謳われるほどの勢い。富士を模した築山が身禄の没後、次々とつくられ、老人・女・子供など富士へ行けない人々の役に立った。
大江戸ものしり図鑑
主婦と生活社
富士講先達の安藤冨五郎顕彰碑
金剛寺の境内に富士講「丸参講」を組織し、指導してきた安藤冨五郎の顕彰碑があった。安藤氏が金剛寺に葬られているのであろうか。その関係は不明であるが、富士講の史料をここでも見ることができたのである。
顕彰碑
丸参と刻まれた碑
滝野川
流清らかにして、川は曲行なり。一歩ごとに眺めの替わる地なり。川ばた岩窟のうちに弁財天を安置す。風景少く金亀山に似たるところ。あり楓の色さかりのころは、川水にうつりて、竜田川もかくやとばかりあやしまる。
江戸名所花暦
江戸時代金剛寺の付近は楓もみじの名所であった。現在その名残を「もみじ公園」、「紅葉橋」という名で残している。
左:滝野川 江戸名所花暦