天台宗   梅龍山    木母寺(もと梅若寺)
  
     ばいりゅうさん      もくぼじ

    住所:墨田区堤通二丁目   最寄り駅:東武伊勢崎線鐘淵駅
梅若丸伝説
木母寺縁起によれば梅若丸は洛陽(京都)北白川吉田少将惟房卿の子なり。惟房卿は子無きを憂え日吉の上に祈願してもうけた。7歳の年に比叡の月林寺に入り修学した。そのころ東門院というところに松若丸という子がいて、日頃の才の程を争ってきたが梅若丸には及ばなかったので、その坊の法師が口惜しがり闘争をかけてきた。梅若丸は密かに北白河の家に帰ろうと思い、さまよって大津の浦に至るころは2月20日余りの夜のことであった。陸奥国の信夫籐太(しのぶのとうた)という商人に出会い、欺かれて遠い東のほうに下り、かろうじてこの隅田川に至る。時に貞元元年(976)3月15日なり、道の程より病に罹りついにこの地でみまかった。今わの際に和歌を詠む「尋ね来て問わばこたへよ都鳥すみだ河原の露と消えぬと」。この時出羽の国羽黒山の下総坊忠圓阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)という尊い聖が通りかかり、村人と語って亡骸を一推の塚に築き柳一株を植えて印とした。明くる年の3月15日里人が集まって仏名を唱えお経を上げていると、その日梅若丸の母君(花御前といい美濃野上の長者の娘という。または花子ともいう。後薙髪(ていはつ)して妙亀尼(みょうきに)と号する。)がこの隅田川に来て、青柳のところに人が群れて拝んでいるのを見て、舟人に訳を問わせ、その塚が我が子の塚であることを知り悲歎に暮れた。その夜は里人と共に唱名し明くる朝忠圓阿闍梨に会い、この地の草堂を営み阿闍梨をここに居らしめ常行念仏の道場となして児の亡跡を弔うこととした。
江戸名所図会
木母寺  江戸名所図会
下:総泉寺  江戸切絵図
上:木母寺  江戸切絵図
2004/08
墨田村
鎮守は水神社(現隅田川神社)、稲荷二社があった。天台宗木母寺は梅龍山隅田院と号し、もとは梅若寺と称した。室町時代後期に成立した謡曲「隅田川」にみえる梅若丸の伝承に関わる寺で、「梅花無尽蔵」にも「梅若丸墓所」と記されている。境内の梅若山王社は梅若丸の墓地と伝える小高い塚上にある。長禄3年(1459)太田持資が修造。天正18年(1590)徳川家康が奥州発向の際に立寄り、帰陣後に梅柳山の号を与えた。慶長2年(1597)寺を訪れた
近衛信尹から木母寺の額を贈られ、改称したという(風土記稿)。境内五智堂北西に将軍が狩猟の際に立ち寄った御殿があり、貞享2年(1685)に修理されたが、その後廃された。
日本歴史地名大系
東京都の地名

木母寺
梅若塚
梅柳山木母寺
墨田村堤のもとにあり墨田院と号す。天台宗にして東叡山に属す。本尊は五智如来なり、中にも阿弥陀如来の像は聖徳太子の作なりと伝う。貞元年間(976-7)忠圓阿闍梨当寺を草創す。天正18年(1590)台命あり、よって梅柳山と号す。昔は梅若寺と呼んでいたが、慶長12年(1607)近衛関白信尹(のぶただ)公武蔵野国に下りたまいし時隅田川逍遥の行くてに当寺へ立ち寄れせられ寺号を改め木母寺の号を賜いぬ。
梅若塚
木母寺の境内にあり。塚上に小祠あり、梅若丸の霊を祀り山王権現とす。縁起に梅若丸は山王権現の化現なりという。後に柳を植えてこれを印の柳と号く(なづく)例年3月15日忌日たるゆえに大念仏興行あり。
江戸名所図会


左広重の絵は江戸名所図絵で見る左側「茶屋」のあたりに舟で上がってきたところである。
木母寺内川御前栽畑
名所江戸百景 広重