熊野神社 くまのじんじゃ
角筈十二社(じゅうにそう)権現 幻の滝と池
所在地:新宿区西新宿
江戸時代「角筈村」と呼ばれた辺りは、現在「西新宿」と呼ばれ、高層ビルが林立している。その西外れに通称「十二社(じゅうにそう)」と言われている「熊野神社」がある。この周辺に多くの滝と大きな池があったというのである。ここは江戸の遊興の地として錦絵に描かれ、江戸の地図にも掲載されている。しかし、現在ではそれらがあったとは想像も出来ない。何も残っていないのである。「角筈」の地名は現在交差点名として残っているだけで、特に「大滝」と言われていた滝の場所は神社の神官に聞いても具体的な場所は知らないという。下の絵は、角筈十二社の池および滝として描かれたものである。そこでかって有ったこれらの場所を追って見ることにした。
十二社権現の滝について詳細に述べているのは、江戸末から明治初期にいた噺家三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」です。この作品は人妻を手に入れたくて絵師の旦那を殺した浪人が、さらに息子が邪魔になり下男に殺させようとする場面です。
「子供をつれて四谷角筈村の十二社に行くのじゃ。何丈という上から落ちる巾の四間もある滝だ、ことに滝壷の下は皆岩だから、あすこへ打ち込めば死骸が底まで行かぬうちに、微塵に砕けて散乱して、どんどん水に流れてしまうのは受け合いだ。」
刀で脅された下男は子供を滝に連れて行きます。
「ご案内の通り新宿の追分から左へ切れて右へ右へとまいりますので、此処は新宿の賑やかさに引き換えまして、角筈はもう家もまばらで畑が多うございます。十二社の入口は大樹の杉が何本となくありまして、遠くから滝の音が聞こえます。この角筈村の十二社権現の滝と申しますのは、滝壷は只今では滝の巾も狭く高さもいたって低くなりましたとやらで、上水の流でございますから、人が懸かるの浴びるのというわけには相成りませんとやらにききました。最もこの他に滝が二筋もありまして、ここへは誰でも懸かれますから、夏の頃は随分群集しますそうで、、、、、」
この物語は、この後下男が子供を滝に落としますが、死んだ父親の亡霊が子供を助け、後に子供が浪人を殺し敵討ちをするというものであります。
怪談乳房榎 ちくま文庫
池にまつわる伝説
古老の話によると境内にある池には面白い伝説が残っている。いつの時代か中野の郷に日々荷馬車を引いて貧しい暮らしをしている一人の男があった。ある日のこと、男は食うに困って、馬を引いて葛西のほうまで売りに行っての帰るさ、売代の4貫文が悉く大観通宝であったので、、、、(略)。
男はみるみる運が巡って、中野長者と世にその幸をうらやまるるまでの身分となったが、どんな因縁があったものか、年頃になっての一人娘に、婿養子を迎えれば間もなくそれが死んでしまう。迎うるほどに死ぬるほどに、8人までは養子があったけど、それよりは誰一人我からと進んで中野長者の娘の婿になろうというものはなくなって、娘は世をはかなんだ挙句に、夕立の降りしきる夕を気が狂って、この池に見を投じた。と、その怨霊はたちまちに大蛇となって現れ、路行く人を悩ますことおびただしきに困(こう)じ果てた村人は小田原道了寺の住職を招いて読経怠らなかった甲斐あって、大蛇はいつとはなしにかき消す如く失せてしまった。以来、この池は都の名所のひとつとなった。
東京年中行事
往時茫々
新宿西口の新都心地区の緑地帯・新宿中央公園に接して熊野神社がある。今このあたりの町名は何の変哲も無い「西新宿4丁目」となっているが、昭和45年までは「十二社」という町名であった。その名は熊野神社が紀州熊野の十二所の神々を勧請したことに由来する。最初は十二所権現社といったが、狂歌師の蜀山人(太田南畝・おおたなんぽ)が「熊野三山十二叢祠(そうし)」といったのがもとで、「十二社」を「じゅうにそう」と呼ぶようになったといわれる。今はその面影すら残っていないが、ここには池と瀧があった。町名変更になる少し以前、池は新都心地区の造成と道路の拡張工事で完全に埋め立てられてしまったが、それまでは十二社の池として周辺の花街とともによく知られていた。さらにその昔は、江戸・東京の清遊地として親しまれていた。
江戸東京物語 山の手篇
熊野信仰
鈴木九郎が角筈に勧請した「熊野の神」とはどのようなものか、ちょいと寄り道をしましょう。
ずっと昔、初代天皇である神武天皇が天皇といわれる前、「東征」をしました。王(神武天皇のこと)の恵みの行き渡っていない土地、ニギハヤヒという者の支配する東の地に武力侵攻をしたのです。最初大阪から奈良に入ろうとしたのですが先住民の抵抗が強く一旦は退却し南紀から攻め入ることにしました。そして熊野の荒坂の津に上陸し熊野の山に進みました。この山中を行軍している時「やたの烏」が飛んできて道案内をしてくれました。この烏は天照大神が使わした「熊野の神鳥」だったのです。神武天皇の持つ弓の先に烏が止まっている絵を見たことがありませんか?
熊野はずっと昔から神の山であったのです。そしてその山に第10代崇神天皇の時代に「熊野本宮大社」が、第12代景行天皇の時代に「熊野速玉大社」が、第16代仁徳天皇の時代に「熊野那智大社」が創建されたのです。これを熊野三山といいます。
そして平安時代以降には阿弥陀如来の住む現世浄土世界となり、常世(あの世)との境の国として考えられ、極楽浄土への往生(死)を求めて人々はひたすら熊野を目指し詣でました。
神社には「神」が住みます。ところが、浄土世界とは仏教の話です。平安時代に日本の神様は仏様の仮に姿を変えたものであるという考え方ができまして、神と仏がごっちゃになりました。そのために熊野三山の神様が実は仏様であったという事になり、それぞれの大社に神殿が12殿建ち、そこに仏様(本地仏)が住むようになりました。これが「三所権現」、「五所王子」、「四所神明」合わせて「熊野十二所権現」と呼ばれています。
この神様を鈴木九郎は勧進して「角筈十二所権現」と言ったのです。
参考:日本100の神社 日本交通公社
現在熊野神社と称している、江戸時代「十二所権現」と呼ばれていた神社の由来であります。
十二所権現社
淀橋の南角筈村にあり、祭神紀州熊野権現に同じ。本郷村成願禅寺奉祀の宮なり。社記にいう応永年間鈴木荘司重邦の後裔鈴木九郎某なる人ありて、紀州(和歌山県)藤代に住めりしが、流落(零落)して此処中野の地に住す。熊野権現は産土神(うぶすなしん・土地の守り神)たるにより宅の辺の丘陵を開きて小祠(ほこら)を営みて尊信深かりし。然るに九郎あるとき北総(上総の北部、現在の東京都)の葛西の市に、飼うところの(飼っている)痩せ馬を売りて価一貫文を得る。帰路にいどみて、浅草に至りその得るところの銭のさし(一文銭を千枚「さし」という紐に通し一貫文といった)を解きて見るにことごとく大観銭なり(通常は寛永通宝など。大観銭の意は不明)。九郎心に思うことありて観音堂に詣りてその銭を宝前に奉り、手を空(むなし)うして帰りしが、それより後幸福を得てその家大いに冨を成せり。故に応永10年(1403)、社(小祠)を再興し改めて12所の御神を勧請し奉り田園等若干を附す。数世を経て後荒廃に及び(中略)村民恐怖しついに享保の頃官府に訴えて成願寺奉祀の宮とす。
江戸名所図会
熊野神社
櫛御食野命・伊邪那美命を祀り、旧郷社。社伝によれば、応永10年(1403)に鈴木九郎某が紀州熊野大社の分霊を当地に勧請したものと伝える
。熊野十二所権現・十二所権現・十二社(じゅうにそう)ともよばれ、十二社は十二叢とも書いて一帯の俗称ともなった。なお鈴木某は紀伊国の出で、本郷村(現中野区)に土着、のち中野長者と称される有徳人になったとの伝承がある。江戸時代には成願寺が別当を務めていた。境内の西側と南西側には角筈村の用水溜池があり、南西側の溜池は十二社の池と呼ばれた。この池には少女が蛇体に化身するという中野長者に絡む伝説があり、三遊亭円朝は十二社の滝を「怪談乳房榎」の舞台に選んでいる。当社および十二社の池は江戸近郊の行楽地として知られ、当社の境内でも各種の興行が行なわれた。
日本歴史地名大系
江戸時代の様子を書いた碑文が残っています。
十二社の碑(新宿区指定史跡)
ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1861)3月に建てられました。
高さ210cm、巾119cm、幕末期に江戸市中の様子を記した「江戸繁盛記」を著した儒学者寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、当時名高かった景勝地十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の選になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。
熊野神社
新宿区教育委員会発行のガイドには次のように説明されています。
熊野神社
室町時代の応永年間に紀伊国から来て中野一帯を開拓し中野長者と呼ばれた鈴木九郎が
郷土の熊野三山の十二所権現を勧請して祀ったのが起源とされている。
江戸時代には、幕府により社殿の修理が行なわれ、中野長者の墓のある中野成願寺を別当寺とした。
もと熊野神社の境内は広く、複数の池や滝があって江戸西郊の景勝地となり、芝居や浮世絵にも登場する程であった。将軍もしばしば鷹狩の際立ち寄ったり、池を囲んで料亭が立ち並んだりしたことが、十二社熊野神社の名をいよいよ高いものにした。昭和30年代までは大池のほとりに料亭があり、賑わったが、昭和43年に埋め立てられ、浄水場の移転、新都心地区の開発によって昔の面影をすっかり失ってしまった。
新宿区の文化財 史跡
十二社の池
十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りを隔てて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。
大池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8〜26間とされ、水源は湧水であったようです。
池の周囲には享保年間(1716〜35)より多数の茶屋が出来景勝地として賑わいました。明治以降は、大きな料亭ができ、花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓薬300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられました。
大池の北側に隣接する小池(下池。下の溜井)は、大池の分水で、昭和初期より一部の埋め立てが行なわれ、第2次大戦中には完全に埋め立てられました。
熊野神社
十二社の滝
十二社には、記録や古老の噺からいくつかの滝があったことが伝えられています。このうち十二社の大滝は、「江戸名所図会」「江戸砂子」などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ3丈、幅1丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向けて造られた神田上水助水掘が、熊野神社東端の崖から落ちるところに出来たものです。
池と共に景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の「怪談乳房榎」の中で、この滝を登場させています。
滝の多くは明治以後、淀橋上水の工事(明治32年完工)などにより埋め立てられました。
熊野神社
なお、神田上水につきましては次の通りです。
神田上水
天正年間(1573-92)、徳川家康の命で大久保忠行が開設したのに始まる上水。井頭の池を池を水源として、関口、水道橋を経て、神田・日本橋・京橋に給水した。総延長約66Km。明治33年新多摩上水施設により廃止。
井頭池は広さ約2万坪とある。現在4万u。武蔵野の3大湧水池のうち最大のもの。
東都歳事記注釈
地図1:明治13年(1880)
地図2:明治42年(1909)
地図3:昭和20年(1945)
大滝は何処にあったのか。先ず淀橋浄水場が出来る前の地図を探してみました。明治13年(1880)の地図を見ると、南の玉川上水から、北の神田上水までほぼ北向きに助水堀が通っています。そして、現在の地形から推定して大滝があったと思われるところを赤丸で囲んでみました。さらにその後の地図2、および3では淀橋浄水場の近くが暗渠になったのでしょうか一部見えなくなっていますが、助水掘り全体としては水が流れており、地図1の滝として赤丸をつけた部分がいずれも露出しています。
最近の地図ではどうでしょうか。地図4を見ると助水掘りになっていたところのうち、方南通りより北側が緑の線としてかかれております。これを現地調査してみたところ、暗渠であり、こども公園として緑地帯になっているのです。
とすると、大滝のあった場所はこども公園の延長線上で現在の方南通りを越えた、樹木の繁っているところ、坂を上る道のやや東側と推定できると考えます。
現在その場所はなだらかで崖とは呼べません。しかし道の西側にある運動場と坂の上に建っている区民ギャラリーの地盤との高低差は大きなものがあります。もしここが崖になっていたのであれば、水は滝のように流れていたことと思われます。従って、現在の地図に「大滝跡」として赤丸をつけました。
たまたまこども公園の調査中、隣の建物から男の方が顔を出しました。60歳近くの方と思われますが、この方に話しを聞くことが出来ました。
「この公園は副都心が造られるまで川でした。方南通りの向こうには滝が流れていました。ただ、滝といっても坂を水が流れ落ちるようなものでしたが。その水は浄水場から流れてきたものと思っています。また、神社の向こうには池もありまして、私達は子供の頃池や滝で遊んだものです。」というのです。
あらためてこども公園から東側の木々の先を見直しました。この先に昔は滝があったのだと確信しました。
「淀橋浄水場」は明治25年(1892)に着工し32年に完工しました。この頃には池はまだ賑わっており、滝も急な流として残っていたのでありましょう。そして淀橋浄水場は昭和40年(1965)をもって業務を東村山浄水場に移管し役割を終え、ビルの林立する副都心に変貌します。都庁の新宿への移転は平成3年(1991)であります。
従って、副都心の着工は1965年以降となり、この工事の中で滝も池も消えていったのでありましょう。
熊野神社に不思議なものを見つけました。本殿の脇に石垣が組まれ、そこから滝のように水が下の池に流れ落ちているのです。もしかしたらこれはかってここに滝と池があったということを思い起こすモニュメントであるのかもしれません。
地図4:現在
明治40年頃の情景として次のように書かれています。
十二社の1日
新宿停車場前を通り抜けて3町ばかりにして右に曲がり、淋しい道を行くこと五、六町、左側に古松老杉うっそうと茂った小高い丘がある。これがいわゆる十二社(じゅうにそう)の滝で、周囲二町ばかりの池の周囲と茂りあったる木の間に屋根をかまえ、座敷をしつらえ、朝から夕まで汗をしぼって働く人や、平生家にばかり閉じこもって居勝の婦人連、半日の場所に充ててある。
滝は入口の左右と池の左側中央と合わせて3箇所、それが各々男滝と女滝に分かれている。滝の水は玉川上水の淀橋浄水池に入るところから引いたそうなのだ。遊び場としては、滝の外に釣堀がある、矢場がある、十二社花屋敷というものもある。夏の花が乱れ咲いた花屋敷には、山百合の花が満開である。とある茶屋に上がり、聞けば日々4、500人の客はあるそうな。
東京年中行事
角筈熊野十二社 名所江戸百景 広重
角筈熊野十二社権現 絵本江戸土産 広重
角筈村熊野十二所権現 江戸名所図会
四谷十二社 北斎
熊野滝 江戸名所図会
十二社権現 内藤新宿千駄ヶ谷絵図(1862)
熊野神社にある説明板
同上
同上
熊野神社参道
熊野神社本殿
十二社通りと右(東)高台に建つ熊野神社
この辺りに小さな滝があったと思われる
十二社碑 区指定史跡
同上
史跡説明板
大池跡に建つビル群 熊野神社から見下ろす位置にある
幻の大滝を追って
こども公園 この手前が水道局施設
この木々のむこうに大滝が
こども公園延長線上の風景 手前が方南通り
方南通りから神社への上り道
この道から左はさらに急な上りで、大滝の上に出るあたりであろう
現在の角筈(西新宿)
神社本田脇 滝と池のモニュメントであろうか