平蔵地蔵   へいぞうじぞう
      
龍吟山 海雲寺

       所在地:品川区南品川3丁目
      最寄り駅:京浜急行青物横丁駅
いまはむかし、東京が江戸といわれていた頃、平蔵という、正直者のこじきがいた。こじきといっても、平蔵はいつも、人さまのおなさけをもらって、生きるのがきらいだった。平蔵が生まれた所は、東北の片田舎、貧しい百姓の家だった。おっかあと二人で、小作をして暮らしておった。そのおっかあも死に、どうにもならんので、江戸に出てきた。江戸に来ても、まともな仕事はなかった。いつしか、大木戸の近く、車町のこじき宿にに住むようになった。
歳の瀬も迫ったある年のこと、その日は久しぶりに仕事があった。鈴ヶ森の刑場で屍を土にうめる仕事だ。一日中、泥まみれになって、働いて六文もらった。
「もうじき、また、正月がやってくるけど、年をとるだけ人並みだ」
平蔵はひとりごとをいいながら、品川の宿を越え、芝、高輪あたりまできて、一休みしようと、ふとあたりを見まわした。すると、ちょうど、腰かけるのに手ごろな枯れ木が横たわっていた。さて、しゃがみ込もうとすると、枯れ木のそばに何やら包みが落ちているではないか。
「一体、何が入っているのだろう」
手にとった包みはずっしりと重い。平蔵は、包みをといて、びっくりぎょう天。そのはずだ。包みの中には何と、大判、小判がびっしり入っている。
「ああ、これだけあれば、いやな仕事もしないで暮らせる」
一度は、そう思った平蔵、あの忘れもしない雪のふる夜、死ぬ間際にいった、おっかあの声がうかんで来た。
「平蔵、ここさすわれ、人間、一生かかっても、銭こいくらあっても、買えん物があるど。そらな、正直という心だべな」
平蔵は、一夜明けて、まだ星のあるうちに、こじきの宿を出ると、包みの落ちていた場所に座った。やがて日が昇って、職人衆や旅商人があわただしく通るようになった。すると平蔵の前を、一人の武士が何か探しものでもしているかっこうで通りかかった。平蔵は、立ちあがると、武士に呼びかけた。
「もうし、お武家さま、お金を落とされたのでは」
平蔵の手には、しっかりと大判、小判の入った包みがにぎられていた。武士はとびあがらんばかりに驚き、目を喜びいっぱいにして輝かした。
「おぬしがひろわれたか、かたじけない」
武士は、包みの中から、小判を三枚つかむと、
「これを礼にとって欲しい」と差し出した。
ところが、平蔵は首を横にふって、なかなか受けとろうとしない。さんざん問答のすえ、ようやく、平蔵は小判を一枚だけもらった。平蔵はその足で食べ物と酒を買い、こじき宿にもどると、仲間達にふるまい、今までの出来事を話した。
酒の酔いがまわるにしたがい、仲間たちは平蔵をののしりはじめた。
「一生のうち、一度だっておがめねえ大金を、おめおめと、落とし主に渡すとは、何たる馬鹿もんだ」
「そうだ、そうだ、放り出しちまえ」
その夜のうちに、宿から放り出された平蔵、あわれ、翌朝には、品川の海岸で、水死体となって発見された。
平蔵の屍は品川の海雲寺に、ねんごろに葬られた。
お墓と並んで、地蔵が祀られ、今でも香華が絶えないという。

東京の民話 一声社
民話:地蔵になった平蔵
千體荒神堂(せんたいこうしんどう)
海道の右の方海雲寺といへる禅林にあり。本尊荒神の霊像は毘首羯摩天(びしゅかつまてん)の真作にして、昔九州肥後国天草荒神の原というにありしを邪宗門一揆のころ邪徒等社を破却す。故ありて当寺に勧請すといえり。霊験有とて衆人常に参詣す。
江戸名所図会
千體荒神堂  海雲寺
境内に平蔵地蔵が祀られた
平蔵地蔵尊
高輪から品川宿  分間江戸大絵図(1828)

赤○印のところに車町、大木戸がある。
ここに平蔵が住んでいた。
財布を拾った場所もこの近辺であろう。
この地図品川宿のすぐ南に海雲寺があり、鈴ヶ森はさらに南。
高輪大木戸   江戸名所図会
江戸の入口である。上の地図○印にある。
2004/12
海雲寺の沿革
曹洞宗、龍吟山海雲寺は建長3年(1251)僧不山によって開基、はじめは庵瑞林といい、海晏寺境内にあって臨済宗であった。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕(ぶんがいそこう)大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になったもので、ご本尊十一面観音菩薩を安置し、ご尊像は建長3年創立当時、仏師春日の作といわれている。
海雲寺略縁起
海雲寺
正面2堂のうち、右側が本堂で本尊十一面観音像を安置し、左側が荒神堂で千躰荒神を祀っている。江戸時代から「品川の荒神さん」として人々に親しまれてきた。
荒神堂奉納扁額27面は区指定有形民俗文化財。
品川の史跡めぐり
品川区教育委員会
無宿人・口入屋
現在の住民登録にあたるものが人別帳で、そこに登録されていないものが無宿人、あるいは無宿。巨大都市江戸では何とか食えるので、次第に農村からも流入。
無宿人でも質のよい連中は、職業斡旋業者である口入屋が身元を保証し、奉公人としてどこかに押し込める。仕事がどうしても無ければ乞食にでもなるよりないが、これはいつの時代でもあったこと。
生きてゆく最後の手段が乞食だが、江戸には16人の乞食の親分がいて貰い場を分割して支配していた。
大江戸ものしり図鑑
主婦と生活社
右:平蔵地蔵尊と由緒説明板
海雲寺山門
千躰荒神堂
海雲寺は江戸時代と同じ位置にあり、旧東海道に山門がある。