取り崩された花見のお山
御殿山 ごてんやま
所在地: 品川区北品川
小噺
え-、春になって、お花見てえなぁ結構なもので、その時分になるってえと、花のほうでいろいろと相談する。夫婦さくらだの、うば桜・・・・お婆さん桜だの、子供桜の色々な桜がございます。
「ねえ、おまえさん、見物の人がチラホラ来るようになったよ。あたしはもう咲こうと思うんだが、どうだろうねえ」
「そりゃぁ咲いたっていいけど、おめえは一重だろう」
「あたり前だよ、八重なんぞ咲いて浮気なんぞしやしないから安心おしよ」
てんで、夫婦桜が相談をしているってえと、お婆さん桜が、
「咲くんなら、あたしが一番先にさせとくれ」
「おいおい、お婆さん、あわてて咲かなくったっていいよ。え-、そんな皺だらけの花なんか、あとのほうで、ちょっと咲きゃいいんだよ」
「なに、そうでないよ、あたしは先が短いんだから、早く咲くよ」
ってんで、こういうなぁ、春の小噺でございます。
志ん生江戸ばなし 古今亭志ん生 立風書房
御殿山花見 江戸名所図会
品川御殿山 名所江戸百景 広重
御殿山の富士 北斎
御殿山桜の名所 江戸切絵図
御殿山ヒルズの桜 2004.04.02
葉桜になった一重の枝垂桜(左)と
満開の八重枝垂桜(中央)
2004.04.16 長瀞
満開の八重桜 2004.04.17(世田谷)
御殿山 付近
御殿山 広域
2004/04
御殿山
武蔵野台地を構成する淀橋台地のうち、高輪台の先端にあたる丘陵。目黒川の左岸、北品川地区の西部に位置し、丘陵の東は海、西と南側を目黒川が流れ北には台地が継続している。
御殿山の名称は、太田道灌が江戸城を築く前の長禄(1457-60)の頃に屋形を構えていたという伝承に由来するとの説もあるが、後述の「品川御殿」から命名されたと考えられる.
中世の御殿山は幕末の品川台場築造の際の土砂採取によって板碑・宝篋印塔・五輪塔などの中世石造物が多量に出土しており、海を望む山の斜面には石塔が建ち並ぶ供養の場が築かれていたと考えられている。
江戸時代初期から元禄15年(1702)にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた。御殿の位置は現北品川3丁目5番付近と推定される。
桜の名所で知られる御殿山は寛文(1661-73)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のほか飛鳥山・隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。塙保己一は寛政10年(1798)5月に幕府から御殿山の一角を拝借・群書類従がここで印刷、刊行された。文政7年(1824)の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は11500坪で、桜600本・櫨(はぜ)60本・松5本・雑木750本と記録されている。
幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られ、文久元年(1861)には外国公使館建設が決まり、翌年完成間近の英国公使館は高杉晋作・志道多聞(井上馨)・伊藤俊輔(伊藤博文)らの尊皇攘夷派の四肢3名によって焼打ちされ、建設工事は中断された。さらに明治に入り鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。
日本歴史地名大系
東京都の地名
現在御殿山は無い。地名に残るものがあるだけである。
左は「御殿山ヒルズ」という場所の小公園にある桜。
江戸時代の御殿山を題材にした落語は聞かない。
今回落語花見シリーズ作成にあたり、名所「御殿山」には「小噺」をあてた。
桜の一重と八重では一般に一重の方が早く咲き、八重が続く。
御殿山とは直接の関係は無いがこれを比較した。
花見シリーズの一重を撮影したのが4月2日で、左の「八重枝垂桜」は4月16日の撮影、下の満開の八重は17日と約半月の差が出ている。