閻魔参り

閻魔参り
左の浮世絵、「美南見」は品川の遊郭。閻魔の斎日の風景。例年1月16日と7月16日は閻魔の斎日として品川の東海寺は山門を開いて信徒を入れ、人々であふれたという。この絵は閻魔参詣の人々が東海寺の入り口に近い柵門外の牛頭天王社の近くを通る場面と説明されています。
美南見十二侯・夜の送り 清長
江戸時代「閻魔参り」という歳時がありました。当時の人々は皆どこかの寺に所属しており、その寺ではどんな宗派も「極楽往生」という、死後極楽浄土に行けるのだという教えを説いていました。「極楽往生」出来ない場合、という対比として経典の中で「地獄」という場を説明していたのです。
「悪業や罪を犯す人間は地獄に落ちる」という戒めはずっと以前からありました。この地獄が具体的に形成されたのが「往生要集」で895年に完成され、その説明は今日まで続いています
ここまでは仏教の教えですが、それとは別に中国唐末から始まる「十王信仰」というのがあり、これによると地獄には「十王」がいて、「閻魔王」はその一人と説明されていました。その後日本にその経典も普及し、さらに「閻魔王」が「閻魔大王」となり、「死者を極楽浄土に送るか地獄に送るかを決めるのは閻魔大王様だ」となったのであります。
江戸の人々は普通の仏教だけでは心もとなく思い、仏様と閻魔様に二股をかけ「極楽往生」を願ったのでしょうか、それともちょいとした罪を毎年閻魔様に懺悔することにより帳消しにしてもらおうと思ったのでしょうか、その辺はわかりませんが「閻魔参り」は盛んだったようであります。このシリーズでは「閻魔様について」と、「閻魔参りのお寺」をご紹介します。
なお、私は宗教理論についてはまったくの素人であり、資料を参考に独自に構成しておりますので間違いがありました場合にはご勘弁いただきたく、また間違いのご指摘がありましたら訂正させていただきたいと思います。

正月十六日
〇閻魔参 世にえんまの斎日という。
浅草御蔵前長延寺(閻魔丈六倶生神脱衣婆立像)、同大円寺十王堂、浅草寺奥山(並脱衣婆在、虫歯病者祈願す)、同寺中正智院寝釈迦堂内、浅草誓願寺中西慶院、下谷広小路常楽院、下谷坂本善養寺(丈六)、下谷金杉背尊寺(並脱衣婆)、湯島円満寺(並脱衣婆)、本郷六町目法眞寺内、本銀町四丁目観音内(並脱衣婆)、茅場町薬師境内、深川寺町法乗院(十王倶生神脱衣婆)、同霊巌寺中開善院(並脱衣婆)、同八幡宮境内観音堂の内、本所回向院(並脱衣婆)馬頭観音の堂へ十王像地獄の畫幅を掛る、同霊山寺、同法恩寺中大教院、同北割下水花厳(けごん)院、同五ツ目羅漢寺三帀(そう)堂の内、芝増上寺山内(蓮池の向也、倶生神在)、同花岳院地蔵堂内、芝金地院(石像霊験の像なり、煎茶いり豆を拕く)、西ノ窪天徳寺中随養院(木像)・栄立院(石像)、麻布一本松長伝寺(石像)、六本木崇願寺(十王並脱衣婆)、目黒不動尊境内地蔵堂内(脱衣婆)、目黒安養院(十王、脱衣婆)、渋谷長谷寺観音堂内、三田寺町実相寺境内、同四丁目春林寺観音堂、高輪如来寺本堂内、南品川長徳寺、牛込通寺町養善院(並脱衣婆)、同原町松雲寺境内、小日向桜木町還国寺(木像石像並脱衣婆)、同上水ばた日輪寺内、小石川富坂善雄寺、市谷柳町光徳院、市谷八幡宮境内(石坂右)、同谷町地福院、薬王寺、雑司ヶ谷玄浄院法明寺中、駒込小苗木(おなき)縄手正行寺(並脱衣婆)、同寺町光源寺大観音内(並脱衣婆)、巣鴨眞性寺(脱衣婆、十王、倶生神、赤青の鬼、浄婆利の鏡の前にて罪人の業(ごう)のはかりに掛たる像在)、谷中天王寺内瑞雲院、麹町八丁目栖岸院内、同九丁目心法寺(十王像)、平河天満宮社地、四谷内藤新宿太宗寺(丈六余)、同所裏通正受院(並脱衣婆)、同南寺町眞成院汐干観音内、中野成願寺観音内(十王並脱衣婆)、赤坂一ッ木浄土寺(石像)、同威徳寺内、同新町専修寺内、青山泰平観音境内、同教学院(並脱衣婆)、同善光寺境内地蔵堂内、千住金蔵寺、同勝専寺、豊島川端専称院。
毎月・小石川下冨坂町源覚寺閻魔参 世俗蒟蒻閻魔という。
今日諸寺院地獄変相の畫幅を掛る。
〇今日商家の奴婢やぶいりとて、主人の暇を得て家に帰り、父母兄弟に詣し、自在(ほしいまま)に逍遥す。貝原好古云、やぶいりは宿居(やどおり)の誤りなるべし。
七月十六日
〇閻魔参 えんまの斎日という。
参詣の場所、正月十六日のくだりに記する如し。
〇商家奴婢後の薮入、正月十六日に同じく、主人の暇を得て随意に逍遥す。
東都歳時記
(青色太文字は三大閻魔と呼ばれる「丈六仏」を祀っていたお寺です)
東都歳時記挿絵

閻魔王坐像 長延寺
江戸時代より残る丈六像





浄土思想と六道輪廻

来迎図 地獄・極楽の絵 毎日新聞社
念仏を唱えた人達の死出の浄土への旅立ちには仏様たちが迎えに来てくれる。
|
閻魔様とは |

仏教の他界観は、六道輪廻・浄土思想といったきわめて複雑な宇宙論的他界観を説く。
六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道をいい、最もひどい世界は閻魔大王が盟主の地獄であり、地獄とは途方も無く深い地下の牢獄である。地獄から天道の他化自在天までを欲界、その上に色界、さらに上に無色界があり。この欲・色・無色の垂直的三界が衆生の住む六道の世界である。この天界も六道の一つであるため、やがて快楽尽きて他の世界へ輪廻する。これとは別次元に浄土があってそこに仏たちが住む。その浄土も、阿弥陀如来が住む極楽浄土、釈迦の住む無勝浄土、薬師の住む浄瑠璃光浄土等々多様である。
この別次元を連続的に捕らえる思想が生じ十世紀末「往生要集」によってその体系が成立した。六道を穢土としてここからの解脱により浄土往生が可能であり、それには念仏が必要であるとする。
厭離穢土と欣救浄土の対立する二大概念で阿弥陀の極楽浄土への往生を説き、一方では地獄の恐怖を強調したのである。
地獄の世界 坂本要編 北辰堂
六道図 地獄(黒縄所)
閻魔大王が裁判人(死人)の生前の善悪を浄玻璃鏡で写しだし、倶生神がその行為を報告する。
六道図 地獄(焦熱之楼)
俗に言う釜茹地獄。中心付近に地獄に落ちた者を、仏様が救いに来ている。救おうとしている白い糸が、一般に言う蜘蛛の糸。
六道図 地獄(阿鼻城)
鬼や竜が乱舞し、全てが炎に包まれている。
六道図 阿修羅
終始戦っていなければならない地獄。殺されたとしても死ねない。戦いを終われない。
六道図 餓鬼・畜生
餓鬼:食物を食べようとしても、口の所で炎になってしまう。腹が空き、下っ腹が出てしまう。
畜生:顔だけが人間で、身体は四足の化物。上方は三途の橋。左側の小屋には奪衣婆が居る。
以上5巾の「六道図」は品川「長徳寺」の閻魔堂に飾られているものである。図はパンフレットでいただいたもので転載をご了承いただきました。
「六道図」は仏教に則ったもので、次に述べる「十王図」とは異なりまが、この中の閻魔王は「十王図」の影響を受けた中国スタイルの王が描かれています。このように穢土の恐怖を教え、欣救浄土を心に持たせたものでありましょう。
************************************
八大地獄
地獄とは死後の世界であり、悪業を行ったものは必ず地獄に落ちると信じられていた。地獄を説く経典には次のものがある。
長阿含経巻19。地蔵菩薩本願経。他。
往生要集(985年完成)で説く八大地獄が今日で最もよく知られる地獄である。
一、等活地獄(とうかつ)
生前殺生をしたものが落ちる。
二、黒縄地獄(こくじょう)
殺生や盗みを働いたものが落ちる。
三、衆合地獄(しゅうごう)
邪淫の罪を犯したものが落ちる。
四、叫喚地獄(きょうかん)
飲酒の罪を犯したものが落ちる。
五、大叫喚地獄(だいきょうかん)
嘘の罪を犯したものが落ちる。
六、焦熱地獄(しょうねつ)
七、大焦熱地獄(だいしょうねつ)
八、阿鼻地獄(あび)
焔魔天 京都醍醐寺 国宝・文化財大全
閻魔王
閻魔は梵語(ぼんご)ヤマの音写で、焔魔(えんま)、夜魔(やま)、炎魔(えんま)、閻羅(えんら)とも書き、双王、平等などと訳されている。古代インドの神話で、ヤマは人類最初の死者とされ、善業をつんだ者のゆく天上界にあって死後世界の支配者であったのが、のち転じて地下にある奈落(地獄)の主となり、死者の生前の罪を暴く法王の性格も備えた。
焔魔天
このヤマが仏教に取り込まれてその住む天界が、六欲中の第三位に位置づけられ、密教において特に焔魔天と呼ばれ、護法神として南方守護の天となって、十二天の一天に加えられている。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)では外院(げいん)南方に配され、その形姿は左手に人頭幢(にんとうどう)を持ち、水牛に乗る二臂(にひ・二本の手)の天部形に描かれ、眷属(けんぞく)として泰山府君、焔魔后などを伴っている。
目で見る仏像 東京美術
以上平安期までの仏教における閻魔王の位置づけであります。
閻魔と十王
閻魔が中国の冥界観(めいかいかん)と混淆(こんこう)して特異な発展をみせたのが、死者の裁判官としての閻魔王である。中国土着の冥界の支配者であった太山府君(たいざんふくん)が太山王として吸収され、閻魔の異称であった平等王も加えられるなどして、唐末ころ十王が成立する。十王とは冥界における十人の裁判官のことで、中国における死者の七日ごとの供養と結びついたのである。冥界において生前の罪を裁断する十王のうち最も権威あるのが閻魔王である。
冥界では初七日以下十忌日の順で、秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうだいおう)、五官王(ごかんおう)、閻羅王(えんらおう・閻魔大王)、変成王(へんじょうおう)、太山王(たいざんおう)、平等王、都市王、五道転輪王(ごどうてんりんおう)が裁判を行うといい、中国、朝鮮に伝わる「預州十王生七経(よしゅうじゅうおうしょうしちきょう)」、日本に伝わる「地蔵菩薩発心因縁十王経」(ともに中国で作られた民俗仏典)を典拠としている。
目で見る仏像 東京美術


秦広王 初七日
初江王 二七日
十王図 (中国宋代)


宋帝王 三七日
五官王 四七日


閻羅王(閻魔王) 五七日
変成王 六七日


太山王 七七日
平等王 百か日


平等王 一周忌
五道転輪王 三回忌
十王図 京都大徳寺蔵 国宝・文化財大全 毎日新聞社
これら中国から伝わる十王図をもとに鎌倉時代から日本で十王信仰が移入され十王図が描かれ始めます。また日本の十王は以前よりの仏教と混淆し本地仏が同時に描かれています。つまり、中国の民俗信仰が日本では仏教と混ざって民俗信仰化されていったのであります。
十王図 (日本室町時代)


秦広王 不動明王
初江王 釈迦如来


宋帝王 文殊菩薩
五官王 普賢菩薩


閻羅王(閻魔王) 地蔵菩薩
変成王 弥勒菩薩


太山王 薬師如来
平等王 観世音菩薩


都市王 勢至菩薩
五道転輪王 阿弥陀如来
十王図 京都二尊院蔵 国宝・文化財大全 毎日新聞社
十王の像容は中国宋代の裁判官の服制にのっとり、上に開く方形の冠をかぶり、あげ頚の道服を着て笏を持ち両眼をかっと見開いて叱咤の勢を示すのが一般的であります。
中世に十王経により閻魔王は十王の中の一人となったが、近世において再び冥界の王として敬われ「閻魔大王」と称され、十王経の舞台は閻魔大王の舞台となっていきます。そのため、姿は中国「宋」時代の姿のままです。そこで、閻魔大王の舞台に上る一族を紹介しましょう。
| 閻魔大王の一族 |



三途の川(さんずのかわ)
死後7日目に冥土の閻魔庁へ行く途中で渡るとされる川。
この川には三つの渡しがあり、生前の行いによって渡るところが異なることから、三途の川といわれる。三瀬川(みつせがわ)、わたり川、葬頭河(そうずか)ともいう。川岸には衣領樹(えりょうじゅ)という大木があり、脱衣婆(だつえば・奪衣婆)がいて亡者の衣類をはぎ、それを懸衣翁(けんえおう)が大木にかける。生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が違うので、それを見て、緩急三つの瀬に分けて亡者を渡らせるという。この説明は中国宋代、または日本の平安時代につくられたといわれる「地蔵菩薩発心因縁十王経」という偽経(ぎきょう)の中で詳しく述べられるが、仏教本来の説ではない。日本では中世以降にこの俗信が広まり、こんにちでもなお棺の中に渡し銭を入れるなどの風習が見られる。
日本大百科全書 小学館
奪衣婆像 正受院
三途川老婆 歌川国芳
三途川老婆 歌川国芳
文禄3年(1595)起立といわれる正受院は、浄土宗の地院である。この寺には三途の川で人の衣類を身ぐるみはぐという奪衣婆の像が安置されている。この奪衣婆は子供の虫封じや咳止めの神として知られていたが、これが嘉永2年(1849)に大流行したのである。これに伴い大量の錦絵が発行された。
錦絵の絵柄には、奪衣婆の回りでさまざまな人々や動物が願をかけている様子が描かれているもの。
特別展 江戸四宿
実行委員会
なお、懸衣翁の画像は現在のところ私はみつけていません。
閻魔庁



閻魔王坐像 長徳寺
浄玻璃鏡 地獄・極楽の絵
閻魔庁 地獄・極楽の絵 毎日新聞社


わが国では十王の造像は鎌倉時代から行われ、十王十躯とともに、司命(しみょう)、司録(しろく)、倶生神(ぐしょうしん)、鬼、人頭杖(にんとうじょう)、脱衣婆像なども造られ閻魔堂に安置されたと思われる。これらの一具像は近世になると大量に作られて村村の閻魔堂にも祀られた。
司命、司録は冥府の役人を代表する者で、一般には司命は筆と書簡をとり、司録は書簡をひもといて読む姿にあらわされる。倶生神は、同名、同生と呼ぶ二神で人の誕生時からその左右の肩にいて、その人の所業の善悪を全て記録しているという。
十王図では各王の側に司命、司録が描かれ、浄玻璃鏡(じょうはりきょう)、業秤(ごうのはかり)や罪業を問われる亡者も描かれる。
目で見る仏像 東京美術
倶生神像 長徳寺

二人頭杖 目で見る仏像
左上は「閻魔庁」で閻魔大王に亡者が罪業を問われている。脇で司命、司録が補佐している。左の絵は生前の罪を映し出す「浄玻璃鏡」で、嘘は許されない。お寺の閻魔像の脇にはこの鏡が置かれていることがある。
上は「二人頭杖」であるが、一人だけの「人頭杖」もある。江戸落語「御血脈」では「視目嗅鼻(みるめかぐはな)」と言って大王様に知恵をつけている。閻魔天は「人頭幢」を持つ。
左は「浄玻璃鏡」を前に置いた閻魔王像。
下は倶生神。
他に実働部隊として鬼卒が大勢居る。
以上が閻魔大王の舞台、冥府で働く者達であります。
近世になり、江戸市中だけ考えても、有名な閻魔堂は66ヶ所を数え、その多くは正月と7月の16日の斎日に地獄変相図や十王図を掲げてその恐ろしさを盛んに解説したのである。ただ一ついえることは閻魔にしても獄卒にしても、極めてユーモラスに描かれており、恐怖感より近親感さえ覚えるほどである。近世社会の文化の構造は一口にいって庶民の現実主義的な人生観なり生活観を根底としている。このような傾向はおそらく近世における地獄観と無関係ではないだろう。近世的な開放感の中で、地獄も極楽も茶化され、パロディーとなって絵画に投影されたと見て間違いないであろう。
江戸では元禄年間(1688-1703)以降庶民信仰が急激に展開し、ミニチュア版西国巡礼・四国巡礼等が登場する。天保9年(1838)刊、斎藤月岑の「東都歳時記」には観音札所めぐり10コース、地蔵巡り6コース他が記載され、その中の一つに閻魔百ヶ所詣りが含まれている。近世段階でも遊山の一環としてこの閻魔参りが行われていたことはいうまでもないが、この時点で既にさまざまな見世物同様に、一つのショウを見る趣で地獄の実見におもむいたものと予想される。
藪入りの休みを利用して神仏詣でを行い、恐ろしい地獄を見物し、その際閻魔に願をかけるという都市独特の習俗が生じていた。正月と7月の15日前後にはあの世から祖霊が戻ってくるが、同時にあの世のイメージが、寺院の閻魔詣りによっていっそう具体化されるのだという、都市人の現世的感覚によってこのような習俗が維持されていた。
蒟蒻については源覚寺(蒟蒻閻魔)のみならず、多くの寺院で閻魔の供え物として用いられていたらしく、ここでは嘘をつく舌の代わりといい、嘘をついた人が懺悔の意味を込めて備えるのだと説明されている。
近世的開放感の中で地獄や閻魔は半ばパロディー化され、一つのショウを見る趣きで地獄の実見に赴くようになるに対応して、閻魔像もすこぶる柔和な表情となる。このような閻魔のイメージが象徴的に示されているのが、本格昔話、笑話に登場する閻魔といえよう。古代、中世以前のおどろおどろしき世界を離脱した閻魔信仰が近世以降出現したのである。
地獄の世界 北辰堂
付録:
本格笑い話として江戸時代から残る落語に「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」、「御血脈(おけちみゃく)」、「死ぬなら今」というものがあります。まさにパロディーであり、閻魔様が庶民の近くにいたということを物語っているものと思います。
2006/06